建武の新政なぜ2年で崩壊? 南北朝動乱を招いた後醍醐天皇の改革の失敗理由

建武の新政

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事件簿
事件名
建武の新政(1334年〜1336年)
場所
京都府

元弘3年(1333年)、約150年にわたり武家政権として続いてきた鎌倉幕府が滅亡しました。その中心にいたのが、天皇自ら政治を行う「天皇親政」を掲げた後醍醐天皇です。後醍醐天皇は建武元年(1334年)から「建武の新政」に取り組みましたが、足利尊氏の反乱によりわずか2年余りで崩壊しました。今回は南北朝という動乱の時代を招いた建武の新政について、分かりやすく解説します。

建武の新政の背景:鎌倉幕府の統制と天皇権威の低下

建武の新政は第96代天皇の後醍醐天皇による、天皇親政体制の政治のことです。このころの朝廷は、鎌倉幕府の強い統制下にありました。

承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が政治の実権を幕府から取り戻そうとして起こした「承久の乱」で、朝廷方は敗退。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島に流され、当時の天皇だった仲恭天皇は廃位となりました。これにより天皇の権威は低下します。

さらに幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷の動きを監視していました。こうして天皇は政治の実権を持たず、武家政権である鎌倉幕府が日本の実質的な支配者となっていたのです。

両統迭立とは?南北朝に続く持明院統と大覚寺統の皇位争い

鎌倉幕府は朝廷の皇位争いにも口を出しました。後嵯峨上皇の時代、朝廷では上皇の第三皇子である後深草天皇(後の持明院統)と第七皇子の亀山天皇(後の大覚寺統)が皇位争いをしていました。

当初は兄の後深草天皇が皇位に着きましたが、亀山天皇を溺愛する後嵯峨上皇は亀山天皇に譲位しました。その後、政務の実権を握っていた「治天の君」の後嵯峨上皇は明確な皇位継承順位と次代の治天の君を決めないまま、文永9年(1272年)に死去。このため後深草天皇を担ぐ持明院統と、亀山天皇を担ぐ大覚寺統が対立します。

次代は亀山天皇の息子の後宇多天皇となりましたが、後深草上皇はこれに抗議し、出家を検討します。後深草上皇に同情した幕府の介入により、後宇多天皇の次の天皇は後深草上皇の息子・伏見天皇となりました。

その次の天皇はどちらの系統がつくのか。朝廷内で両派閥の争いが続くなか、幕府は文保元年(1317年)、各系統が10年ごとに交代で皇位につく「両統迭立」を提案し、その後慣例化していきます。

こうして、93代に持明院統の後伏見天皇、94代に大覚寺統の後二条天皇、95代に持明院統の花園天皇が即位。そして文保2年(1318年)2月に「建武の新政」の主役となる、大覚寺統の後醍醐天皇が即位したのです。

後醍醐天皇の倒幕計画−正中の変と元弘の乱

後醍醐天皇は、鎌倉幕府の皇位継承への介入に不満を抱いていました。さらに、大覚寺統内では後宇多天皇の次男という中途半端な立ち位置でした。本来であれば兄の後二条天皇の第一皇子・邦良親王が天皇につくはずですが、まだ幼かったため、中継ぎ的な存在として選ばれたのが後醍醐天皇でした。つまり、権力基盤がそれほど強くなかったのです。

加えて、後醍醐天皇は武家政権における天皇の政治権限の低さにも不満を抱いていました。このため、2度にわたり倒幕計画を企てます。

元亨4年(1324年)、後醍醐天皇は側近の日野資朝・日野俊基らとともに密かに討幕計画を進めていましたが、9月に六波羅探題により計画が露見したとされています。正中の変と言われるこの事件では、4ヶ月にわたる幕府の調査の結果、後醍醐天皇と日野俊基は冤罪とされ、日野資朝が佐渡国(新潟県佐渡島)に流されました。ちなみに、この事件については犯人は後醍醐天皇だったという説と、持明院統による冤罪事件だったという説が出されています。

元弘の変で隠岐島に流される

正中の変から7年後の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕を企てていたことが発覚します。天皇中心の新体制をめざした後醍醐天皇は、前年末から具体的な計画を練っていましたが、元徳3年(1331年)4月、側近の一人が六波羅探題に密告。鎌倉幕府の知ることになったのです。

後醍醐天皇は8月に「元弘」に改元を詔したのち、三種の神器とともに京都を脱出し、山城国の笠置山(京都府笠置町)に立てこもり、挙兵しました。この際楠木正成などが呼応して挙兵していますが、十分な軍勢は集まらず、笠置山は幕府軍に包囲されて陥落しました。

後醍醐天皇は捕らえられ、翌年に隠岐へ配流されます。そして持明院統から光厳天皇が擁立され、事実上、後醍醐天皇は廃位された形となりました。光厳天皇はこのとき元号を「正慶」と改めています。以降、後醍醐天皇ら大覚寺統・後の南朝では「元弘」、持明院統・後の北朝では「正慶」という年号を使うようになります。

足利尊氏と新田義貞が挙兵、鎌倉幕府の滅亡

ところが、幕府の強権的な処置はかえって反発を招きます。大和国では楠木正成が上赤坂城や千早城(ともに大阪府南河内郡千早赤阪村)で抗戦を続けました。さらに各地で在地の武士が蜂起し、幕府は鎮圧に追われ、次第に統制力を失っていきました。

正慶2年・元弘3年(1333年)閏2月、後醍醐天皇は隠岐島から脱出し、伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町)の名和氏を頼りました。そして名和氏とともに伯耆船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で挙兵し、幕府軍を敗退させるとともに、諸侯に綸旨で倒幕を呼びかけました。さらに「西の比叡山」とも呼ばれる圓教寺(兵庫県姫路市)で幕府滅亡を祈願しています。

これを討伐しようと幕府は足利尊氏(当時は高氏)を派遣しましたが、尊氏は後醍醐天皇に味方し、京都で六波羅探題を攻撃して滅ぼしました。尊氏が寝返った理由は諸説ありますが、北条氏の専制への不満や、源氏の名門である足利氏の地位への不満などが背景にあったとされています。

また、同時期、東国では新田義貞が挙兵し、鎌倉を三方から攻撃し、5月に激戦の末に市街へ突入しました。北条高時ら北条氏一門は東勝寺で自害し、ここに鎌倉幕府は約150年の歴史を閉じたのです。

幕府滅亡後、後醍醐天皇は京都へ帰還し、光厳天皇の即位を白紙に戻し、命令などをすべて破棄するとともに再び自らの政権を樹立しました。

後醍醐天皇が建武の新政を開始

元弘3年・正慶2年(1333年)6月、政権に返り咲いた後醍醐天皇は「建武の新政」と呼ばれる天皇中心の新政を開始しました。なお、元号については翌年1月に「建武」に改元されており、このため新政の名称は「元弘の新政」ではなく「建武の新政」となっています。

後醍醐は摂政・関白を置かず、院政も行わない、天皇による直接政治をめざしました。天皇の下では公家と武家の区別はなく、征夷大将軍も御家人も幕府もありませんでした。もっとも征夷大将軍については後に息子の成良親王が一時就任しています。

後醍醐天皇が理想としたのは10世紀前半の、醍醐天皇や村上天皇による天皇親政「延喜・天暦の治」だったと言われています。ただし、南北朝時代の歴史書・軍記物語の『梅松論』によれば、「今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべしとて新なる勅裁漸く聞えけり」、つまり自分の新しい制度が未来の先例になるとも言っています。

建武の新政の失敗の原因①新しい政治体制に混乱する人々

後醍醐天皇は政権奪取後、さまざまな行政機関を設置します。このうち中央に設けられたのが「記録所」「恩賞方」「雑訴決断所」「武者所」です。

記録所は中央官庁の最高機関かつ重要政務の決定機関で、楠木正成ら武家が4名、公家が17名所属していました。恩賞方は倒幕運動等で戦功のあった武士への論功行賞を決定しました。雑訴決断所は所領関係を管轄する役所で、綸旨だけでは処理できない土地問題などの裁定を行っていました。武者所は軍事、警察関連で京都の警備を担当。新田義貞が長(頭人)に就任しています。

一方、地方は鎌倉に鎌倉将軍府、東北に陸奥将軍府を据えます。さらに、各地に鎌倉幕府時代から続く武士達の「守護」職に加え、地方の中下級貴族が就任していた形骸的な「国司」を改めて併置し、国司の権限を強めるとともに、中央から有力者や側近を国司として派遣しました。このため、権力を失った武士や、既得権益を損ねられた中下級貴族からの反発を招くこととなります。

さらに、新体制による人事変更で登用された公家達は経験が浅く、新たな行政機関での業務に適応しきれず苦労します。加えて武士達や農民たちからもさまざまな不満が出始めます。

建武の新政の失敗の原因②土地の所有権問題

建武の新政の失敗の原因としてよく挙げられるのが、土地の所有権問題です。後醍醐天皇は従来の所有権を一度白紙に戻し、全ての所領の安堵に天皇の綸旨が必要になるよう法体制を整備しました。

しかし、これまでの武家社会の慣例を無視したことで現場は大混乱。所領の安堵を求める人々が役所に殺到したため物理的にさばききれず、ひと月も立たずに手続きを国司に任せるようになりました。

建武の新政の失敗の原因③大内裏再建と財政負担

建武元年(1334年)1月、後醍醐天皇は大内裏の造営を発表しました。大内裏は度重なる火事や政変により焼失しており、後醍醐天皇は権威を示すために再建を計画したのです。財源は安芸国・周防国の租税と全国税収の20分の1でした。税金により各地の農民は苦しめられ、後醍醐天皇は農民たちからも反発されるようになります。

建武の新政の失敗の原因④公家優遇と武士の反発

後醍醐天皇は武家政権を否定したとはいえ、公家と武家の区別なく天皇に仕えるべきだと考えていました。しかし、実際は公家たちに有利な恩賞を与えるなど公家に有利に働きかけたことから、鎌倉幕府打倒に貢献した武士達からの反発を招きました。

とはいえ、恩賞により、足利尊氏のように台頭した人物もいます。尊氏は本領安堵に加え、武蔵国や伊豆国といった新たな守護職を得ました。加えて公卿にも就任しており、後醍醐天皇の諱「尊治」から1字賜り、高氏から尊氏に改名。後醍醐天皇の寵愛を受けるなか、新政権で徐々に勢力を強めていきました。

足利尊氏が離反、建武の新政の終焉

建武の新政に対する不満が高まるなか、武士たちの支持を集めていったのが足利尊氏でした。建武2年(1335年)7月、鎌倉で北条時行による「中先代の乱」が発生すると、尊氏はこれを鎮圧しますが、その後、朝廷の許可を得ずに鎌倉にとどまり、乱で活躍した武士に独自の恩賞を与えるなど、徐々に後醍醐天皇の意志を無視した行動をとりはじめます。さらに、関東の新田氏の領地を没収し、新田義貞の討伐を後醍醐天皇に求めました。

これに対し後醍醐天皇は激怒し、義貞を擁護して尊氏追討を命じます。両者の対立は決定的となり、建武3年(1336年)1月、京都で戦闘が勃発します。義貞軍に加え、奥州から駆け付けた北畠顕家の軍により尊氏は一時敗退しますが、九州で勢力を立て直し、2月には光厳上皇の新田義貞追討の院宣を旗頭に再び京都へ進軍しました。

実は、後醍醐天皇は建武の新政を開始したのち、持明院統と融和策を取っており、廃位された光厳天皇は「光厳上皇」として尊号にあたる太上天皇号が贈られていました。

その後、後醍醐天皇は2月29日に元号を「延元」と改めていますが、尊氏は認めていません。尊氏軍は5月に摂津国湊川(兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で楠木正成率いる後醍醐天皇軍を破り(湊川の戦い)、光厳天皇とともに京に入ります。こうして建武の新政は、わずか2年余りで終焉を迎えました。

南北朝時代の到来

建武3年・延元元年(1336年)6月、京都に入った光厳上皇は、15日に元号を延元から建武に戻し、8月に弟の豊仁親王を光明天皇として皇位につけました。

一方の後醍醐天皇は比叡山へ退き、京の奪還を狙っていました。それに対し、光厳上皇は後醍醐天皇が持つ三種の神器を確保するために和議を申し入れます。神器の所在は天皇の正統性を示す象徴だったためです。後醍醐天皇は和議のため帰京しますが、幽閉されてしまいました。

足利尊氏は武士の支持を背景に実権を掌握し、朝廷内でも持明院統を支持する公家層がこれに呼応。11月には建武式目を定め、その後実質的な武家政権、室町幕府を開きます。

一方、後醍醐天皇は表面上は退位を受け入れた形をとりましたが、12月に京を脱出します。このとき後醍醐天皇は三種の神器を持ち出したと伝えられます。

後醍醐天皇は大和国吉野(奈良県吉野町)で独自の吉野朝廷(南朝)を樹立し、自らが正統な天皇であると宣言するとともに、光明天皇の朝廷を「偽朝」と位置づけました。以後、京都の北朝と吉野の南朝がそれぞれ天皇を立て、日本は明徳3年(1392年)に南北朝合一が実現するまで、約60年間の南北朝時代に突入するのです。

栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。