天明大噴火(浅間山)大飢饉につながった浅間山の大噴火
天明大噴火(浅間山)
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- 天明大噴火(浅間山)(1783年)
- 場所
- 長野県・群馬県
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群馬県嬬恋村と長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町との境にある「浅間山」は日本を代表する活火山のひとつです。そんな浅間山が大噴火を起こしたのが江戸時代の天明3年(1783年)5月から8月(※新暦)にかけてのこと。「天明大噴火」「天明の浅間焼け」と呼ばれるこの噴火により、嬬恋村を中心に多くの死者が出たほか、天明の大飢饉の原因のひとつにもなりました。今回は天明大噴火についてわかりやすく解説していきます。
日本有数の活火山・浅間山
浅間山は群馬県嬬恋村と長野県北佐久郡軽井沢町・御代田町との境にある標高2568mの活火山です。種類としては溶岩や火砕流、火山灰、軽石などが積み重なってできた円錐形の成層火山で、古くから霊山として信仰の対象になってきました。日本百名山に選ばれており、登山家のファンも多い山です。
浅間山は火口のある「釜山」と第二外輪山の「前掛山」、第一外輪山の「黒斑山」「牙山」「剣ヶ峰」「蛇骨岳」などからなる三重式の火山です。釜山は危険区域なので常に立ち入り禁止になっていますが、前掛山は噴火警戒レベルによって登れたり登れなかったりします。2024年9月現在、浅間山の噴火警戒レベル2(火口周辺規制)が出されているため、現状としては登ることができません。
研究によれば、浅間山は約10万年前から第一外輪山の黒斑山が積極的に活動し、成層火山に成長しました。この黒斑山が爆発して山頂の東半分が崩れ落ちます。次に平たい仏岩山(弥陀ヶ城岩とも)が誕生し、2万年前ころから活動を開始しました。約1万年前から黒斑山の火口のなかにできた前掛山が活発化し、前掛山の内側に中央火口丘ができました。これが天明大噴火により成長して現在の釜山になったそうです。
現在も釜山は活動しており、ここ100年では50回以上噴火し、火山灰や噴石、小規模な火砕流などが発生しました。直近では2004年9月に中規模の噴火を起こしており、噴石や火山礫が発生。火山灰は千葉県や福島県、山形県まで届き、群馬県を中心に農作物に被害をもたらしました。2019年8月には小規模の水蒸気噴火を起こしています。
最古の噴火記録は『日本書紀』
浅間山は有史以前から何度も噴火を繰り返してきた火山ですが、最も古い噴火の記録は『日本書紀』にあるもので、飛鳥時代の天武天皇14年(685年)3月のことことです。「是月、灰信濃国に零り、草木皆枯」と書かれているものが浅間山の噴火だとされています(※諸説あり)。
その後、大規模な噴火としては天仁元年(1108年)と大治3年(1128年)に発生しており、天仁元年の噴火については上野国(群馬県)に噴出物が降り積もり、農作物が大きな被害を受けました。
浅間山は戦国時代にも噴火を繰り返しており、天正10年(1582年)2月の噴火の際は、当時の文献からは奈良や京都からも噴火の様子が確認できたことがわかります。実はこの噴火のタイミングは、織田信長が武田氏を滅ぼすための甲州征伐を実施している真っ最中。前回は天文3年(1534年)に噴火したきりだったので、この約50年ぶりの噴火に武田軍は動揺し、逃げ出す領民がでるほどでした。
実は浅間山の噴火については古くから「東国に危機が迫る兆し」と言われており、異変や不吉の象徴だったのです。また、奈良の僧侶たちによって書かれた『多聞院日記』によれば、東国の異変は天皇の祈祷により「朝敵」である武田勝頼の守り神を流してしまったから、との記述もあります。
こうした言い伝えが信じられていたことから浅間山の噴火は武田軍の士気の低下につながり、織田側に寝返るものも現れました。浅間山の噴火は武田氏滅亡に影響を与えていた、というわけです。
江戸期最大の噴火「天明大噴火」
浅間山は江戸時代になってからもたびたび噴火を繰り返していましたが、なかでも最大の噴火といわれるのが、天明3年(1783年)5月9日(※新暦)から8月5日頃まで続いた「天明大噴火」です。約90日間活発に活動したことで前掛山は火の海になり、火砕流・岩屑なだれが発生。1000人以上の犠牲者を出し、付随した川の氾濫や降り積もる灰などは関東一帯を中心に多くの被害がもたらされました。
当時の記録などによれば、5月9日に最初の噴火があり、しばらくの休止期間を経て6月25日に音や地響きとともに黒色の噴煙の柱があがり、火山灰が降り注ぎました。またしばらくの休止期間があり、7月17日に鳴動や降灰が観測されました。本格的に活動が始まったのは7月21日からで、噴火が断続的に発生し、なんと東北地方まで火山灰が飛んでいます。特に7月28日の噴火の際は江戸で戸障子が振動し、灰が降り注いだとの記録が残り、江戸庶民たちが驚いた様子が伝わってきます。
8月2日から3日の夜から未明にかけてはかなり激しい噴火が連続的に発生。江戸にも日は降り注ぎ、名古屋まで鳴動が感じられ、火山雷や噴石により前掛山は火の海と化しました。8月3日午後から翌朝にかけても連続的な噴火があり、火災物が落下。灰は銚子(現在の千葉県銚子市)まで飛んだようです。
8月4日の激しい噴火ではは北麓に吾妻火砕流が流れ、関東中部では雨のように激しく降り注ぐ灰で空が真っ暗になりました。「闇夜のようになったので行灯をつけ提灯をともした」という記録が残されており、相当灰が降り注いでいた様子がわかります。
そして4日から8月5日の夜から朝にかけて、火山の活動は最盛期を迎えます。非常に激しい噴火で大爆発が起こり、火柱や立ち上り空は赤く染まり、火山雷が鳴り、火砕物が落下しました。この様子はさまざまな場所で観測されています。また、関西では地震のような鳴動が記録されています。
このときの様子を描いた絵図によれば、火の玉のような火砕物が降り注ぎ、文献によればまるで激しい夕立のような状態になったそうです。軽井沢宿(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢)はパニック状態になり、避難がスタートしました。
そうこうしているうちに8月5日の10時頃、京都や広島まで音が聞こえたという大爆発が起こり、浅間山の北側の山麓が崩壊し、溶岩流が落下。鎌原(かんばら)火砕流・岩屑なだれが発生します。鎌原火砕流・岩屑なだれは北麓に流下し、そこにあった鎌原村(群馬県嬬恋村鎌原)を埋めます。さらに吾妻川に突入して天明泥流となり、吾妻川渓谷部の八ッ場(群馬県長野原町)付近にあった天然のダム(塞止)を決壊させ、大洪水が起こります。さらに泥流は利根川に流れ込み、利根川流域の多くの村落を流失させて銚子や江戸まで到達しました。この泥流により隅田川の新大橋や永代橋が流されています。
また、この時別方面に流れ出た火砕流は芦生田集落(群馬県吾妻郡嬬恋村芦生田)を壊滅させています。国土交通省によると、天明大噴火による被害は死者1151名、流失した家屋は1061棟、消失した家屋は51棟、倒壊した家屋は130余棟にも及びました。
天明大噴火の被害①日本の「ポンペイ」となった鎌原村
天明大噴火で最も被害が大きかったのは鎌原村です。泥流によって埋まった村は、イタリアのヴェスヴィオ火山の噴火で埋まったポンペイにたとえられ、「日本のポンペイ」と呼ばれています。鎌原村では記録によれば約100戸が火砕流に飲み込まれ、477名が死亡しました。ちなみに当時村では100戸前後に570人が暮らしていたようで、村人の8割以上が亡くなったことになります。生き残ったのは高台の鎌原観音堂に逃げ込むなどした93人のみでした。
嬬恋村では1980年度から1991年度に数度にわたって発掘調査がおこなわれており、2021年度からは26年度までの6年間続く予定の調査が開始されました。こうした調査によりさまざまなことが判明しています。例えば当初、鎌原村の埋没した原因は暑くてどろどろとした「熱泥流」と考えられていましたが、調査結果により「常温の乾燥した物体」、つまり岩や石などからなる岩屑なだれだったことが判明しています。近年の発掘調査ではより詳しい岩屑なだれの流れや文献の内容の確認などがされており、今後の調査にも期待がかかります。
天明大噴火の被害②天明の大飢饉の一因となった農作物の被害
天明大噴火による軽石や火山灰の降下は、農作物や建物に多大な被害を及ぼしました。噴煙は偏西風に乗って東南東に流れたため、火山灰は関東一円、なかでも浅間山から東~南東方向を中心に降り積もりました。
記録によれば軽石については燃えた軽石が降り注いだことによる火事が発生。さらに屋根に積もった灰や石、砂の重みにより70軒が潰れ、65軒が大破しています。碓氷峠から新町(群馬県高崎市)の間には灰がたくさん降り積もった結果、畑の形すら判別できなくなってしまったそうです。
田畑に降り積もった灰は農作物に甚大な被害を与えました。新たに苗を植えようとしても灰をどかさなければ何もできない始末。さらに火山灰が日光を遮ったことで、無事だった農作物も日照不足になりました。
天明3年の夏といえば、天明の大飢饉の真っ只中。異常低温による大冷夏によりただでさえ大凶作が発生して食糧不足だったなかでの浅間山の大噴火は、天明の大飢饉をさらに長引かせる一因となったのです。
天明大噴火の被害③天明6年の洪水
さらに、浅間山の噴火は思わぬ被害を巻き起こします。それが天明6年(1786年)に利根川水系で発生した「天明の洪水」です。天明大噴火で流れ出た泥流は利根川に入り込んだのは前述のとおりですが、泥流による石や土は利根川の水底に降り積もりました。このため川底があがり、川が氾濫しやすくなってしまったのです。
天明6年は5月ごろから雨がよく降るようになり、7月12日からは大雨が続きました。このため、底が浅くなった利根川流域全体で水量が増え、7月18日の午後に洪水が発生したのです。江戸市中には濁流が流れ込み、千住大橋などの一部の例外を除き、永代橋や新大橋などの橋は次々に破壊されました。
当時の史料によれば水位は1.8mから4.8mで、本所深川など、現在の東京都江東区を中心に大きな被害が出ました。千住は4m近く、浅草付近でも約1.8mまで水位が上がったそうで、番町(東京都千代田区)のような高台でも床上まで浸水しました。
このとき利根川以外でも荒川や多摩川などの河川が氾濫して洪水が発生し、江戸だけでも5000人超の罹災者が出ています。
天明大噴火の与えた影響
天明の大飢饉にも影響を与えた天明大噴火。農作物が壊滅的な被害を受けたことで深刻な食糧難が発生した結果、上野国や信濃国(長野県)では中山道の馬子や人夫、駕籠かきたちが中心となった打ちこわし一揆が発生しました。米屋は百姓たちにより襲撃され、質屋や酒屋も被害にあっています。
また、天明大噴火は当時の政権にも大きな影響を与えました。当時の政権を担っていたのは老中・田沼意次ですが、天明大噴火が一因となった飢饉の結果、幕府に対する不満が高まります。しかも天明の大洪水により、意次が進めていた新田開発が頓挫してしまいます。
田沼意次は飢饉対策の一つとして、印旛沼(千葉県北西部)の新田開発と治水に取り組んでいました。利根川とつながっている印旛沼はたびたび氾濫しており、治水工事が必要でした。意次は下総国平戸村(千葉県八千代市平戸)から検見川村(千葉市花見川区検見川)の海岸までを結ぶ放水路を作り、印旛沼の水を江戸湾に流そうと考えたのです。
天明2年(1782年)から調査が始まった事業は天明大噴火による被害で一時中断したものの、天明4年(1784年)から再開し、作業の2/3までは無事に終了。ところが天明6年(1786年)の天明の洪水で水路が破壊され、工事は失敗してしまいました。
追い打ちをかけるかのように、意次の後ろ盾だった第10代将軍の徳川家治が天明6年(1786年)8月に死亡。意次は老中を解任されてしまいました。代わって老中首座に就任したのが、白河藩主・松平定信です。定信の治めていた白河藩は天明の大飢饉対策が成功し、餓死者0だったといわれています。その手腕が評価されて政権運営を担うことになった定信は、老中として「寛政の改革」を進めていくことになります。
- 関係する人物
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。