享保の改革徳川吉宗の大改革

享保の改革

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事件名
享保の改革(1716年〜1745年)
場所
東京都
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江戸城

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江戸時代には数々の政治改革が行われましたが、将軍自らが改革の指揮を執ったのが『暴れん坊将軍』で有名な8代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」です。吉宗は身分を問わない積極的な人材登用、年貢の定額化、新田開発などさまざまな改革を実施し、幕府の財政を立て直すことに成功しています。今回はそんな享保の改革について分かりやすく解説します。

享保の改革はなぜ起きた?:「正徳の治」の負債

6代将軍・徳川家宣と7代将軍・徳川家継の時代は儒学者・新井白石による改革「正徳の治」の真っ最中でした。白石は幕府の赤字財政を改善するため、貨幣の改鋳や貿易の縮小などを実施します。特に貨幣の改鋳では、これまで金貨や銀貨の金・銀の保有量を減らしていたものを江戸時代初期レベルまで戻しました。

ところが、金・銀の産出量が減少するなかでの改鋳により、デフレが発生。さらに、米の不作による年貢の落ち込み、歳出の拡大などで幕府の財政難は続きます。加えて正徳6年(1716年)、徳川家継が8歳で早世してしまいます。

家継の跡継ぎに選ばれた徳川吉宗

わずか8歳の徳川家継に直系の跡継ぎは当然おらず、次期将軍は尾張・水戸・紀州の徳川家康の血を継いだ「御三家」から選ばれることになりました。このうち候補としてあがったのが尾張徳川家の徳川継友、水戸徳川家の徳川綱条、そして紀州徳川家の徳川吉宗です。実はこのほかに徳川家宣の弟で舘林藩主の松平清武がいましたが、54歳と高齢だった(当時からすれば)ため将軍を辞退しています。そして候補者争いの結果、徳川家宣の妻・天英院らの後押しもあり、徳川吉宗の8代将軍就任が決定しました。

徳川吉宗は2代藩主・徳川光貞の4男で、もともと藩主になる予定はなかった人物です。ところが藩主を継いだ兄たちが次々と亡くなったことで、第5代藩主に就任しました。

紀州藩主時代は、藩の財政改革に精力的に取り組み、武家から庶民まで徹底的な質素倹約を求めました。食事は1日2食で一汁三菜に限り、自ら木綿の服を着て節約に務めたと伝わっています。また、和歌山城の前に目安箱の原型ともいえる「訴訟箱」を設置。新田開発にも取り組みました。この時の経験が将軍になってから活かされることになります。

享保の改革①人材登用と「足高の制」

徳川吉宗は将軍職に就いたのち、さまざまな改革を実施します。まず初めに取り組んだのが、徳川家継時代の人員整理と有能な人材の登用です。吉宗はこれまで政治の中心だった側用人の間部詮房と侍講の新井白石を解任しました。

そして信頼のおける紀州藩士を多く幕臣に登用。最終的には205人の藩士たちを幕臣にしています。ただし、これまでの幕閣に配慮して過度に出世させないようにしたため、反発はそれほどなかったようです。

紀州藩出身者の筆頭が有馬氏倫と加納久通で、老中や奉行たちの連絡係として新設した「御用取次役」に任命されました。加えて紀州藩主時代の新田開発の担当者・井澤弥惣兵衛を勘定所に登用しています。

また、吉宗は身分にとらわれず有能な人材を側近として登用しました。その一人が時代劇『大岡越前』でお馴染みの名奉行・大岡忠相。このほか儒学者の室鳩巣や荻生徂徠、青木昆陽、農政家の田中丘隅など幅広いタイプの人材を重用しています。

そうした有能な人物を登用するための制度が、享保8年(1723年)に出された「足高の制(たしだかのせい)」です。当時、江戸幕府の役職には家禄(各家で世襲された俸禄)の基準値が設けられていました。これは必要経費をまかなうためで、例えば町奉行の場合は、家来の給料、ふさわしい屋敷・服装などの準備、交際費などの出費があるため、基準値は3000石以上でした。基準値は役職に就いたものが経済的に困窮しないように、という配慮である一方、既得権益を守るためのものでもありました。

しかし、吉宗は足高の制により、家禄が基準値を下回る者に対し、役職の就任期間に限り不足分を幕府がサポートするようにしたのです。この制度のメリットは、家禄が低くても出世できるということで、特に身分の低い者たちのモチベーションの向上につながりました。大岡忠相も1700石の旗本でしたが、この制度を利用して江戸の南町奉行に就任しています。

一方、幕府にとってもメリットだったのが、家禄を上げずに優秀な人材を確保できること。一度増加した家禄は世襲されるので、役職をやめた後も家禄は変更できず、幕府の歳出増につながります。足高の制はあくまでも「期間限定の補填」であり、増加ではありませんでした。とはいえ、実際は退任時に家禄が加増される事態が起こっていたようです…。

享保の改革②倹約令

紀州藩主時代から倹約に努めていた徳川吉宗は、将軍に就任後、政治の立て直しのために「権現様(=徳川家康)のころから格式として定められたものは無用のものでも省略しないが、そのほかのことはできるだけ簡略化して冗費を省く」と宣言しました。

そして幕府の歳出削減に向け、寺院の建立・修繕を厳しく制限するとともに、享保6年(1721年)に勘定所を財政運営を担当する「勝手方」と訴訟を扱う「公事方」に分け、勝手掛に老中・水野忠之を任命しました。勝手方が歳出削減に集中的に取り組むことで改革を加速させようとしたのです。

吉宗は大奥にもメスを入れました。大奥に美女50名を選抜するよう命令したのです。「側室選びか!」と気合を入れる女性たちでしたが、選ばれた女性たちは「美人なら嫁の貰い手があるはず」と辞めさせられてしまいました。

享保の改革③「恥辱」的な上米制

歳出を抑えるための倹約に励む一方で、徳川吉宗は歳入の増加にも力を入れました。享保7年(1722年)、吉宗は「上米制」を実施します。これは大名に石高1万石につき100石の割合で米を献上させる代わりに、参勤交代における江戸の滞在期間をこれまでの1年から半年に減らすというもの。江戸での滞在費は各藩にとって大きな負担だったため、お互いにWin-Winというわけです。

上納された米は年間18万7000石に上り、旗本・御家人への俸禄米(給料)の総額の約5割に上りました。これで幕府は一定の米を手に入れられるようになったわけですが、幕府の財政を藩頼みにしたことで幕府の権威は失墜します。

吉宗としては幕府が各藩に頼らざるを得ない「恥辱」的な上米制は一時的なものだと考えていたようで、幕府の歳入がある程度回復したため享保15年(1730年)に廃止しています。

享保の改革④新田開発と農業振興

歳入増加のためのもう一つの策が、新田開発です。当時、新田開発はある程度開発しつくされていました。そこで吉宗は享保7年(1722年)に江戸日本橋に高札を立てて、江戸の商人たちが届出制で新田開発を請け負うよう呼びかけました。

加えて井澤弥惣兵衛や田中丘隅らと新田開発に取り組みます。この結果、武蔵野新田(現東京都・埼玉県西部、武蔵野周辺)や見沼新田(埼玉県さいたま市)などが誕生しています。新田開発により幕府直轄領の石高は、享保7年が404万石だったところ、享保21年(1736年)には457万石まで増加しました。

また、吉宗は農産物の栽培を奨励します。飢饉対策として、青木昆陽を登用して甘藷(さつまいも)の栽培・普及に取り組みました。このほか都市部の需要を鑑み、菜種油の原料となる菜種や朝鮮人参などの薬草の栽培を奨励しています。

享保の改革⑤年貢の定額化と「五公五民」で農民から非難が殺到

徳川吉宗は新田開発の一方、年貢の引き上げにも取り組みました。今までは年ごとに収穫高に応じて年貢を徴収する「検見法」をとっていましたが、吉宗は一定期間の平均収穫高をもとに試算した年貢高を納める「定免法」を新設し、年貢収入の安定化をはかりました。農民にとっては豊作の時はラッキーですが、凶作の時は貧困の原因となる策です。このため、幕府は「破免検見法」と呼ばれる、凶作時には定免法をやめて検見法を採用する方法も取るようになりました。

加えて享保13年(1728年)には年貢率を「四公六民」から「五公五民」に引き上げました。つまり収穫した米の半分を幕府に納めよ、というわけです。翌享保14年(1729年)の年貢収納率の平均は、引き上げ前から約4%増の36%強だったようで、実際は三公七民レベルだったようですが、これはあくまでも平均値であり農民の負担増は事実でした。このため怒った農民たちによる一揆が多発しています。百姓一揆は江戸時代を通して行われていましたが、享保年間は特に幕府領で集中的に発生しました。

享保の改革⑥「米将軍」吉宗

幕府の歳入増加のために「米」にこだわり続けたことから「米将軍」と呼ばれた徳川吉宗。さらに取り組んだことが「米価」対策でした。米の生産増に伴う供給過剰や、新井白石の貨幣改鋳を原因としたデフレにより、吉宗の時代、米価はどんどん下落していました。俸禄米を支給されていた武士たちにとっては実質的な給与カットで、生活は苦しくなる一方でした。

このため吉宗は各藩に飢饉に備え米を備蓄する「囲米」や、幕府が米を買い上げて備蓄する「買米」などを実施し、米市場から米を引き上げて米価格を調整しようと試みます。さらに享保15年(1730年)には大坂の堂島米市場(大阪府大阪市北区)を公認。ところが享保17年(1732年)に享保の大飢饉が発生したため、幕府は逆に囲米の放出による米価の上昇を防ぐ方に回らざるを得ませんでした。

その後も米価格は低迷し続けました。その一方で、都市を中心とした生活物資などの需要の高まりにより、米以外のものの物価はそれほど下がらず、相対的に物価が上昇したかのような状態になりました(米価安の諸色高)。

享保の改革⑦元文の改鋳

米価がなかなか上がらないなか、ついに徳川吉宗は貨幣の改鋳を行います。吉宗は新井白石の貨幣改鋳、つまり金・銀の質を高める方法については評価をしていたため、最初は貨幣に手を付けず、享保15年(1730年)に各藩の独自通貨である「藩札」の禁止令を解除して貨幣の供給量を増やそうと考えました。ところが各藩は藩札で領内の米を買い、大坂で米を売って銀貨を得ようとしたため、市場における米の供給量がますます増え、さらに米価が下がってしまいます。

ここで対策を練ったのが南町奉行の大岡忠相でした。忠相は吉宗に「米価の上昇のために品位を落として通貨の流通量を増やすしかない」、つまり、金貨や銀貨の金・銀の含有率を下げた貨幣の改鋳を提案します。

これをうけ、吉宗は元文元年(1736年)に品位を落とした貨幣を鋳造する「元文の改鋳」を実施します。金の含有率は正徳4年(1714年)の享保小判の約86.8%に対し、元文小判は約65.7%に低下。銀の含有率は享保丁銀の約80.0%に対し、元文丁銀は約46.0%と大幅に減少しました。交換比率は例えば金貨の場合、旧金貨100両に対し新金貨は165両で、交換促進のためだいぶ優遇しました。

元文の改鋳は、実施直後は急激なインフレを招いたものの、やがて物価は落ち着き米価も上昇。やがて物価と金銀相場は安定し、デフレからの脱却につながりました。元文金銀はその後80年余り使われ続けることになり、元文の改鋳は幕府初のリフレーション政策、つまりデフレから脱却してインフレにならない程度まで物価を引き上げる政策として、現代でも評価されています。

享保の改革⑧目安箱をはじめ他にもさまざまな政策を実施

このほか、徳川吉宗は享保6年(1721年)、庶民から広く意見を募るための「目安箱」を江戸城和田倉門近くの評定場前に月に3回設置しました。目安箱には庶民が自由に投書することができました。ただし住所氏名を書く必要があります。

目安箱には鍵がかけられており、吉宗自ら鍵を開けて投書を読み込みました。投書が採用された例として有名なのが、享保7年(1722年)の小石川養生所の設置です。町医者の小川笙船の投書をもとに設立された施薬院で、明治維新で廃止されるまで続きました。

また、吉宗は江戸の火事対策として町人の自治組織「町火消」を設置。大岡忠相が中心になったもので、町奉行の指揮下に「いろは四十七組」が設けられました。

他にも吉宗は1742年(寛保2年)に法典「公事方御定書」を制定。中国の法律を参照にしたもので、上下巻に分かれており、上官に法令が、下巻は判例が書かれていました。罪人の社会復帰をサポートする「更生」思想が盛り込まれているのが特徴です。

享保の改革の評価は?

徳川吉宗は享保の改革により、幕府の財政を好転させることに成功しました。しかしその一方で農民は疲弊し、一揆が多発。数々の政策のなかには失敗作もあり、その場しのぎの一時的な法令も見受けられること、上米制で幕府の権威を失墜させたなど、マイナスの影響もあります。とはいえ、享保の改革はその後の江戸幕府に大きな影響を与えていくことになるのです。

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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。