正徳の治新井白石による政治改革
正徳の治
徳川幕府の第5代将軍・徳川綱吉による浪費で幕府の財政は破綻寸前でした。そんななか、必死に財政を立て直そうとしたのが第6代将軍・徳川家宣と第7代将軍・徳川家継に仕えた儒学者の「新井白石」です。学問や儒学に重きを置いた「文治政治」を7年間続け、財政悪化の立て直しのために金融の引き締めや貿易の制限、緊縮財政に取り組みました。今回はそんな正徳の治について分かりやすくまとめます。
徳川綱吉の時代に幕府の財政が悪化
「犬公方」と呼ばれた第5代将軍・徳川綱吉の時代、幕府は財政難に陥ります。すでに第4代将軍・徳川家綱の時代に起きた明暦の大火による江戸復興費用で幕府の財政は悪化しつつありました。さらに、幕府の収入源だった主要鉱山の枯渇により急速に財源が減少。そんな状況で、信心深かった綱吉は大寺院の造営・改修といった公共事業に資金を投入したわけですから、財政はさらに悪化していったのです。
また、徳川綱吉といえば「生類憐みの令」で有名ですが、生類憐みの令で野犬を収容するために作られた「犬屋敷」の設営費用のほとんどは諸大名が、飼育費は江戸の町人や近郊の農民が支払いました。そうした負担が景気の低迷につながるとともに、幕府への反感を招きます。
もともと生類憐みの令は135回にわたって発せられた一連の法令で「全ての生き物を大切にしよう」という考えが主旨でした。それが徐々に厳しくなっていき「天下の悪法」となったのです。なお、綱吉の死後直後、生類憐みの令は徳川家宣により、捨て子の禁止などを除いて即座に撤廃されています。
幕府の「貨幣改鋳」でインフレ発生
徳川綱吉の時代、幕府は財政再建のために貨幣改鋳(吹きなおし)を行いました。小判や銀貨の純金・銀の含有量を減らし、貨幣の発行量を増やすもので、勘定奉行を務めた荻原重秀が主導しました。
これまでの慶長小判(慶長6年(1601年)頃~)の金の含有率は約84%。一方、新しく作った元禄小判は約57%なので、慶長小判2枚で元禄小判が3枚作れる計算になります。この改鋳で約500万両の増収が可能になり、幕府の財政の改善につながりました。荻原重秀は「貨幣は国家が造る所、瓦礫をもってこれに代えるといえども、まさに行うべし」、つまり国が発行するのであれば瓦礫でも名目的に貨幣になりうるという言葉を残しています。
貨幣改鋳で幕府の財政は救われたかに見えましたが、質が低下した貨幣の流通量が増えたことでインフレが発生。当初は経済にそこまで影響しなかったようですが、味を占めた幕府はさらに貨幣改鋳を繰り返したため、やがて劇的なインフレが起こり、人々の生活に大きな影響を与えました。一説によれば米価はなんと4年間で80%上昇したそうです。
そうした状況のなか、宝永4年(1707年)10月4日にマグニチュード推定8.6の「宝永の大地震」が発生。その49日後の11月23日には富士山が噴火しており、幕府と藩の財政はこうした災害により大打撃を受け、人々の生活はますます悪化していきます。
徳川家宣の時代・新井白石登場
宝永6年(1709年)1月10日に徳川綱吉が病没した後、第6代将軍に徳川家光の孫である徳川家宣が就任しました。綱吉に後継ぎとなる男子がいなかったためで、48歳で後を継いだ家宣は2人の側近を重用します。一人は側用人の間部詮房で、もう一人が政治顧問的な存在だった侍講(君主に学問を講義する学者)の新井白石でした。この新井白石が「正徳の治」のキーパーソンです。
新井白石は明暦の大火から約1ヶ月後の明暦3年(1657年)2月10日、避難先の江戸柳原(現在の東京都足立区)で誕生しました。3歳で父の儒学書を書き写し、4歳で『太平記』の不明点を指摘するという、いわゆる「神童」だったと伝わっています。気性が激しく、怒ると眉間に「火」の字のようなシワができることから、父が仕えていた久留里(現在の千葉県君津市)藩主の土屋利直からは「火の子」と呼ばれて可愛がられたというエピソードが残っています。
ところが土屋利直の死後の内紛の結果、新井白石は父とともに藩から追放されます。新井家は困窮しますが、白石は貧乏にも負けず儒学や史学を学び続けました。一時大老の堀田正俊に仕えましたが、堀田正俊が稲葉正休により暗殺されると堀田家は衰退し、白石は浪人になります。
その後、新井白石は徳川綱吉の師だった儒学者の木下順庵の弟子となり、頭角を現します。そして順庵の推薦で甲府藩(山梨県国中地方)に仕えることになりますが、その藩主が徳川綱豊、後の徳川家宣でした。白石は19年にわたり1299日の講義を綱豊におこない、学問好きだった綱豊は毎回正装して欠かさず講義に出席したそうです。
徳川家宣の将軍就任とともに、新井白石は政治に参加します。白石が目指したのは江戸幕府初期の武力を背景にした「武断政治」から、儒教を重視し学問や教育を奨励し、教化や法令などにより治める「文治政治」への転換でした。もともと文治政治への転換は第4代将軍・徳川家綱の頃から進められてきましたが、その最盛期が新井白石の時代でした。
正徳の治①改鋳をめぐる争い、荻原重秀VS新井白石
それではいよいよ、新井白石が主導した「正徳の治」について、主な取り組みを見ていきます。新井白石が財政政策として実施したのが貨幣改鋳です。ただし、荻原重秀とは逆に金銀の含有率(品位)を増やして貨幣の質の向上をはかりました。
徳川家宣が将軍を継いだ後も、荻原重秀は勘定奉行に留任しました。そして家宣に財政再建について問われた際、重秀はさらなる貨幣の改鋳を訴えます。新井白石はこれに大反対。このため重秀は宝永7年(1710年)には金の含有率を慶長小判並みの84%まで高めた「宝永小判」を作ります。が、この小判は慶長小判の半分の大きさ。重秀は白石の言うとおりに金の品位を慶長小判並みに戻しましたが、使った金の量は意地でも変更しなかったのです。
さらに荻原重秀は銀貨について、将軍の決済なしで銀品位を下げる引き換えをし、三ツ宝銀や四ツ宝銀などの「悪銀」が市場に流れ込みます。経済は混乱し、さまざまな改鋳はさらなるインフレを招きました。
こうした流れに怒りを感じた新井白石は、荻原重秀による改鋳が幕府の権威を失墜させたと、家宣に重秀の罷免を訴えます。重秀が改鋳により不正に利益を得ていたと訴え(真偽不明)、意見が採用されなかった際は刺し違えてでも重秀を引きずりおろそうとしていたようです。正徳2年(1712年)、病床の家宣は白石による3度目の弾劾書をついに受け入れ、重秀を罷免しました。
正徳の治②成功?失敗?品位を高める貨幣改鋳
正徳2年(1712年)10月、徳川家宣が将軍になってからわずか3年で亡くなります。変わって第7代将軍についたのが5歳の徳川家継でした。正徳3年(1713年)4月に将軍に就任後は、側用人の間部詮房&政治顧問の新井白石コンビが引き続き政権を運営していきます。
荻原重秀という邪魔者がいなくなった新井白石は、徳川家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」の言葉を守り、正徳4年(1714年)、品位約84%・重さ18gと慶長小判と同じ品位・重さの「正徳小判」の流通を開始させます。銀も同様に品位の高い良質なものを作り、通貨量を減らすことでインフレを鎮静化させようとしたのです。
新井白石自身は、一度に大量の貨幣を改鋳して通貨量を減らすと経済に悪影響を与えるため、20年以上かけて徐々に交換するよう提言していました。実際、正徳の治の間の改鋳量はそれほど多くなく、正徳小判・一分金合わせて約21万両程度。元禄小判・宝永小判等の発行量の1%以下でした。とはいえ、正徳4年(1714年)に金の含有率を約87%まであげた享保小判が登場し、828万両にも及んだことなどから、デフレが起こり経済活動が停滞する羽目になるのですが…。
なお、荻原重秀や新井白石の経済政策に対する評価はそれぞれ賛否両論で、歴史学者や経済学者などがさまざまな持論を展開しています。興味がある方はぜひ色々と調べてみていただければと思います。
正徳の治③長崎貿易の縮小
新井白石が行った重要な政策が、長崎貿易の縮小です。徳川家宣の時代、日本はいわゆる「鎖国」下にあり、海外との窓口は「四つの口」と呼ばれる長崎口・薩摩口・対馬口・松前口(蝦夷口)に限定していました。このうち長崎口では幕府直轄の長崎奉行のもと、オランダ・中国(清)と貿易していました。
日本はオランダとの貿易で中国産の生糸や絹織物、香木などを輸入し、銀や金(小判)を輸出していました。日本の純度の高い銀はとても人気でしたが17世紀後半に幕府が輸出を禁止し、以降は小判と銅を輸出していました。また、清との貿易では貿易品に対し対価を銀で支払っていました。
新井白石は「幕府の設立から約100年間で、長崎経由で海外に流出した金銀銅は、金が国内流通量の1/4にあたる約730万両、銀が3/4にあたる約120万貫、銅が22億3000万斤にも及んでいる。このままいけば100年たたないうちに金銀銅は尽きる」とし、財政再建の観点で貿易の制限を訴えます。そして正徳5年(1715年)に「海舶互市新例」と呼ばれる一連の法案を発布し、長崎での貿易を制限します。
中国に対しては、貿易額を銀6000貫・船数を年間30隻に制限し、銅の輸出を300万斤に。オランダに対しては貿易額を銀3000貫・千数を2隻に制限し、銅の輸出を150万斤としています。また、清との密貿易が横行していたことを受け、信牌と呼ばれる入港許可書を導入して持参を義務付けました。
実は新井白石の試算の数字は徳川綱吉の時代に銀の貿易が禁止したことなどは考慮されておらず、儒教的な抑商思想による恣意的な数字でした。しかし、金銀銅産出量の減少に密貿易の横行などの問題があったことなどを受け、貿易縮小が決定したようです。
正徳の治④朝鮮通信使の接遇費を節約
新井白石が外交で実施した政策はまだあります。その一つが朝鮮通信使の待遇の変更です。豊臣秀吉の朝鮮出兵で関係が悪化した朝鮮との国交は、江戸幕府初期に対馬藩(長崎県対馬市と佐賀県の一部)の宗氏のとりなしで復活し、朝鮮から通信使が訪れるようになっていました。
徳川家宣の時代にも正徳元年(1711年)に通信使の来訪が決まりました。通信使をもてなすには1度に約100万両かかり、コスト高に幕府も藩も悩んでいました。
これを受けた新井白石は大幅な経費削減と大名・庶民の負担減に取り組みます。対馬から江戸までの間に開催される宴席を6ヶ所に限定し、接遇の際の小道具に高価なものを使用するのを禁止することなどにより、接遇費用を60万両までカットしました。なお、この変更を通信使に来日直前に伝えたことで、のちに国際問題に発展しています。また、将軍の呼び名を「大君」から朝鮮と対等にするために「日本国王」に変更しています。
正徳の治⑤行政・司法機関の綱紀粛正や武家諸法度を改定
新井白石は財政再建以外にもさまざまなことに取り組んでいます。荻原重秀が廃止した勘定吟味役を再度設置し、賄賂が横行していた勘定所の綱紀を粛正。さらに江戸時代の最高裁判所的な存在だった「評定所」を改革し、審理の遅れや判決の不公正化の是正をはかることで、儒教的な「仁政」(人民をいつくしみ思いやる政治)の実現をめざしました。
また、武家諸法度も改定。それが宝永7年(1710年)の「宝永令」で、儒学思想に基づき大幅な改定が行われており、役人の賄賂を禁止する条項や、裁判を重視する条項が盛り込まれています。
正徳の治⑥閑院宮家の創設
徳川家宣の時代、皇室と宮家(伏見宮家、京極宮家、有栖川宮家)は跡継ぎ以外は親王を名乗れず、それ以外の子女はすべて出家するという慣習がありました。これに対し新井白石は、朝幕関係の融和と共存共栄の観点から、皇室の嫡流を途絶えさせないための対策が必要であると進言。家宣もこれに賛同し、朝廷側の意向を踏まえたうえ、宝永7年(1710年)8月、東山天皇の第7皇子・秀宮による親王宣下で新しい宮家「閑院宮家」を創立しました。
創立から約70年後、後桃園天皇が崩御した際、皇子がいなかったため閑院宮家から兼仁親王が天皇の養子となって光格天皇として皇位を継承。その後、閑院宮の血統は現在の皇室まで皇統として続いています。
正徳の治から享保の改革へ
7年間続いた正徳の治は、正徳6年(1716年)に徳川家継が8歳で早世したことで終焉を迎えます。後を継いで8代目の将軍となったのは紀州藩主の徳川吉宗でした。徳川吉宗は将軍就任後、新井白石と間部詮房を罷免します。これにより白石は隠居し、執筆活動にいそしみ、享保10年(1725年)5月19日にこの世を去りました。
徳川吉宗はその後、武家諸法度をはじめ、正徳の治の法令の多くを廃止してしまいます。とはいえ、必要と感じたものはそのまま残しており、海舶互市新例は継続、良貨重視の政策も当面は続きました。そして能力重視の登用を進め、幕閣を一新した徳川吉宗は財政再建をめざし「享保の改革」を実施することになるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。