明暦の大火(2/2)江戸時代最大の大火事

明暦の大火

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事件簿
事件名
明暦の大火(1657年)
場所
東京都
関連する城
江戸城

江戸城

保科正之はまず、大名たちに銘じて江戸の6ヶ所で粥の炊き出しを実施させます。芝の増上寺前をはじめとする6ヶ所では1日千俵にも及ぶ米を使ったそうです。炊き出しは火災が終息した翌1月21日から始めました。当初は一週間程度の予定でしたが、被災者たちの惨状からたびたび期限を延長し、最終的には2月12日まで実施しています。この間使用した米は合計何と6000石にも及ぶそうです。

このほか幕府は大名や町民などを対象に身分に応じて下付金を配布。町民に支給した額は合計16万両にも及んでいます。また、大名の参勤交代を一時的に中止し、食料の確保に努めたほか、米価や復興に必要な材木価格の高騰抑止策等にも取り組んでいます。

また、死者の弔いも実施しており、このとき身元や身寄りの分からない人々の遺体を本所牛島新田に埋葬し、供養のために御堂を建てました。それが現在の「回向院」(東京都墨田区両国)のもとになっています。

明暦の大火の影響①本格的な「定火消」の設置

明暦の大火の結果、江戸幕府は消防体制の見直しをはかり、「定火消(じょうびけし)」を設置します。定火消とは4家の旗本からなる火消専門役で、火消用の屋敷が与えられていました。屋敷内には火の見やぐらが建てられ、同心2名が常に周辺を監視していました。火事の際は100名を超える担当者が火消しに出動しています。また、治安維持も担っており、鉄砲の所持が許されていました。

4家から始まった定火消はその後増え続け、最盛期の元禄8年(1695年)には15組に増設。その後10組に縮小し、徐々に形骸化しつつも幕末まで活動を続けていくことになります。

定火消に代わって存在感を増していったのが、享保3年(1718年)に南町奉行の大岡忠相が設置した町人の消防組織「町火消」です。時代劇でおなじみの「いろは48組」に加え、本所・深川16組があり、合計64組が江戸の市中を火事から守っていました。

町火消の中心人物は高所で建設作業に携わっていた「鳶(とび)」と呼ばれる職人たち。纏(まとい)持ちが火事場近くの屋根に上って纏を振り回し、消火活動の目印になるとともに仲間を鼓舞する姿は江戸っ子の憧れでした。

明暦の大火の影響②消えた天守閣

江戸幕府は江戸の復興に向けてさまざまな取り組みをおこないました。まずは江戸の現状を知るため、オランダの測量技術を活用しながら実地測量に基づく絵図「新版江戸大絵図」を作成しました。

さらに火事の被害を受けた江戸城の再建を開始。石垣の修理や本丸御殿の再建などの工事は万治2年(1659年)に終了し、城は無事に往時の姿をとり戻…しませんでした。天守が再建されなかったのです。

天守は当初再建される予定でしたが、ここでストップをかけたのが保科正之。江戸城に天守が建てられた慶長12年(1607年)から50年がたち、幕府の政権運営も安定し天下泰平の世が訪れました。そんななかで軍事拠点であり、権力の象徴的な存在である「天守」は不要という考えからでした。江戸市中の復興が必須ななか、象徴的な建物に資金と資材を費やす暇などない、というわけです。

なお、江戸城は被災によりほんの少しその姿を変えました。それが表と大奥をつなぐ「御鈴廊下」が2本に増えたこと。大奥の女中たちが逃げやすいようにとの配慮でした。

明暦の大火の影響③防火対策で江戸の町を整備・拡大

明暦の大火を機に、江戸幕府は江戸の防火対策を強化しました。まずは武家屋敷や寺社を江戸城から遠いところに移転させました。例えば江戸城内にあった尾張徳川家と紀伊徳川家は麹町に、水戸徳川家は小石川にそれぞれ移転しています。

加えて江戸城周辺の武家屋敷や火を使う機会が多い寺社、町人地などを移転させており、そのために湿地だった本所・深川の開拓や築地の埋め立てなどの開発を実施しました。なお、建物については幕府は後に茅葺きや藁葺きなど燃えやすい屋根を禁じ、板葺きにするようにとの触をだしています。

さらに建物の延焼を防ぐために江戸市中に空き地や土手を設ける、いわゆる「火除地」を設置します。火除地は風向きを考え、江戸城北部から西北部にかけて東西に設けられました。また、下谷広小路(東京都台東区上野・上野広小路付近)のように、道幅の広い「広小路」も設けています。

明暦の大火は今まで千住大橋以外の橋を持たなかった隅田川にも変化をもたらしました。江戸城の防衛上の理由などから渡し舟がメインだった隅田川ですが、万治2年(1659年)に「両国橋」がかけられ、その後も「新大橋」「永代橋」「吾妻橋」と増えています。これは明暦の大火の際、向島に逃げようとした人々が川が渡れず逃げられなかったことを踏まえてのものでした。

明暦の大火前から江戸の町並みの整備は続いていましたが、火事によりさらに加速化し、火災に強い町づくりが進むとともに、「江戸」が拡大していくことになったのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03