明暦の大火江戸時代最大の大火事

明暦の大火

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事件簿
事件名
明暦の大火(1657年)
場所
東京都
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江戸城

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江戸の町は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほどよく火事が発生していました。大規模な火災もたびたび起こっていますが、江戸時代最大の火事として知られているのが明暦3年(1657年)1月におこった「明暦の大火」です。市街地の6割以上を焼き尽くし、江戸城の本丸も燃えつくした火事により、江戸の町はその姿を大きく変えていくことになります。今回はそんな明暦の大火について、分かりやすく解説します。

明暦の大火が起きた将軍・家綱の時代

「江戸三大大火」の筆頭として知られる明暦の大火。「振袖火事」「丸山火事」などの異名を持つ日本史上最大級の大火事は、第4代将軍・徳川家綱の時代におこりました。

江戸幕府が開かれてから約50年、江戸は町人だけでも約28万人、武家等を含めると推定約70万人弱が住む大都市へと成長を遂げていました。そんな江戸では冬を中心に火事が多く発生しています。

そもそもなぜ江戸はそんなに火事が多かったのでしょうか。原因として挙げられるのは、江戸の建物のほとんどが木造で、なおかつ屋根は茅葺きや板葺きで燃えやすいものだったこと。人口密度の高さから建物が密集しており、火が燃え広がりやすい一因でした。

さらに冬は晴天が続き乾燥しやすく、北西の冷たい季節風が吹くといった気象上の理由も大きな要因でした。

このころの火災対策といえば、おもに「大名火消」と呼ばれる、大名が消火の指揮を取るシステムでした。当初は16大名4組(1組420名まで)で10日交代で火事にあたっていましたが、1年で10大名3組体制に変更しています。

一方、町人たちはいかに火事に備えていたかというと、町の見回り、天水桶や手桶に水を入れておく、消火用の井戸を用意するなどの対策をしていました。江戸幕府からは火災発生時は皆で駆けつけて消火活動をするよう町触れが出されています。

なお、江戸時代の消火活動は水で火を消し止めるのではなく、火元周辺の家を叩き壊して延焼を食い止める「破壊消火」活動です。

明暦の大火①いつどこで発生?被害状況や死者数は?

明暦の大火は、明暦3年(1657年)1月18日から20日におこった3件の火事のことを指します。当時は80日以上雨が降っておらず、空気が乾燥していました。このため季節風により火は次々と広がり、3件の火事により江戸の市街地約6割が焼失。3件合わせての死者は3万人から10万人と言われており、焼死に加え、火事から逃れようとして川に入り水死した人や寒さで凍死した人、瓦により圧死した人などもいました。

加えて車輪が下についた長持「車長持」で家財道具を持ち出そうとした人々による渋滞で死者が激増。明暦の大火以降車長持は禁止されるとともに、道幅が広がりました。

明暦の大火②本妙寺で発生した第1の火事

ここからは明暦の大火の参考文献として知られる、万治4年(1661年)に浅井了意が書いた物語『むさしあぶみ』をもとに見ていきます。

最初の火事は1月18日の午後1時ごろ、本郷丸山の本妙寺(現東京都文京区本郷)で発生。北西の風により燃え広がり、神田や浅草、日本橋、小伝馬町、霊岸島や佃島、石川島まで拡大しました。このとき神田の東本願寺、日本橋の西本願寺は焼失。日本橋には元吉原もありましたが、全焼しています。死者は浅草橋門周辺だけで2万3000人。火事は1月19日午後2時ころに焼け止まりました。

最初の火事のエピソードとして知られるのが、伝馬町牢屋敷での囚人の「切り放ち」です。牢屋奉行を務めていた石出帯刀は牢屋に火事が近づいたとき、囚人たちが焼き殺されるのを防ぐために一時的に彼らを放免しました。その際「火事が静まったら必ず下谷の蓮慶寺に戻る事」を約束させており、約束を守れば命は助けるが、守らなかった場合は必ず探し出して捕らえるとともに一族郎党を罰すると話しています。結果、ほぼ全員が約束を守って蓮慶寺に戻り、戻った囚人たちは処罰されず減刑されました(全員が戻ったという説も)。

明暦の大火③江戸城の天守・本丸が焼失!

第2の火事が発生したのは小石川新鷹匠町の大番(江戸の警備役)の屋敷(東京都文京区春日)でした。1月19日の11時ころに火災が発生し、同じく北西の風で火は次々と燃え広がりました。武家屋敷が数百軒に渡って同時に燃え上がり、黒い煙が天を焦がし、空は燃え次々と崩れる瓦屋根の様子に人々は茫然自失だったそうです。

この火事の炎は江戸城にも襲いかかりました。延焼により江戸城の天守・本丸、二の丸、三の丸が焼け落ちてしまったのです。このとき江戸城内の本丸にいた将軍は西の丸に避難したため無事でした。

その後京橋付近まで広がった火事は、1月19日18時ころに焼け止まりました。なお、火事により京橋周辺だけでも2万6000人あまりが命を落としています。

第3の火事は麹町の町家(東京都千代田区麹町)で1月19日の16時ころに発生。桜田門一帯の大名屋敷、武家屋敷などを焼いています。西の風により火は鉄砲洲や芝の海浜まで広がりましたが1月20日8時ころ焼け止まり、明暦の大火は終息しました。

明暦の大火④火事の原因は振袖?「振袖火事」の由来

明暦の大火にまつわる伝説として有名なのが「振袖火事」の名前の由来となった恋愛沙汰です。麻布にあった質屋「遠州屋」の一人娘・梅野が菩提寺である本郷の本妙寺にお参りに行った帰り、立ち寄った上野山ですれ違った美しい寺の小姓(と思しき少年)に一目ぼれしたことがすべての始まりです(※登場人物の名前等は諸説あり)。

梅野は恋煩いで寝込んでしまい、「会えないならせめて彼が着ていたものと同じ着物を」と、荒磯と菊の模様を染めた振袖を作ってもらいました。ところがやがて梅野の病状は悪化して死亡。遠州屋は葬儀の日に梅野の棺に振袖をかけて本妙寺に納めました。

当時、寺に納められたものは寺のものがもらっていいことになっていました。そのため本妙寺の僧侶たちは振袖を古着屋に売ります。この振袖を買ったのは上野山下の紙商大松屋の娘・きの。ところがきのは梅野が死んだ1年後に病死し、振袖は棺とともに再び本妙寺に納められました。振袖は再び売りに出されましたが、さらにその1年後、別の娘が死んでまたもや本妙寺に戻される振袖…もはや振袖は「呪いの振袖」となっていました。

このため寺の住職は振袖の供養を決心。明暦3年(1657年)1月18日に寺で供養のために焼くことにしました。ところが振袖を火に投げ入れたとたん、強風が吹き荒れて火のついた振袖は空高く舞い上がりました。そして火は寺の本堂に移り、あっという間に焼失。風により次々と火は広がり、江戸の町を燃やす火事となったのです。

なお、火事にまつわる女性の話としてほかに有名なのが歌舞伎等で知られる「八百屋お七」。火事で避難してきたお寺で出会い、恋人となった寺小姓に会いたいがあまり、自宅に放火した女性の物語ですが、こちらは明暦の大火とは関係なく、天和2年12月(1683年1月)に発生した「天和の大火」で焼き出されたとされる人物です。ちなみにお七の放火はぼやで収まっています。

明暦の大火の原因は振袖だった。そんな話以外にも、「そもそも火元は本妙寺ではなく老中・阿部忠秋の屋敷だったが幕府が非難されるのを恐れて本妙寺が火元を引き受けた」「幕府が江戸の町を大改造するために自ら放火した」など、火事の「原因」についてはさまざまな説が出されています。

明暦の大火⑤幕府の被災者支援

多くの被害を出した明暦の大火。江戸幕府はすぐさま被災者救援と復興に乗り出します。この時陣頭指揮を執ったのが陸奥国会津藩・初代藩主の保科正之。第2代将軍・徳川秀忠の庶子で、明暦3年時点では幕閣として第5代将軍・徳川綱吉を支えていました。

保科正之はまず、大名たちに銘じて江戸の6ヶ所で粥の炊き出しを実施させます。芝の増上寺前をはじめとする6ヶ所では1日千俵にも及ぶ米を使ったそうです。炊き出しは火災が終息した翌1月21日から始めました。当初は一週間程度の予定でしたが、被災者たちの惨状からたびたび期限を延長し、最終的には2月12日まで実施しています。この間使用した米は合計何と6000石にも及ぶそうです。

このほか幕府は大名や町民などを対象に身分に応じて下付金を配布。町民に支給した額は合計16万両にも及んでいます。また、大名の参勤交代を一時的に中止し、食料の確保に努めたほか、米価や復興に必要な材木価格の高騰抑止策等にも取り組んでいます。

また、死者の弔いも実施しており、このとき身元や身寄りの分からない人々の遺体を本所牛島新田に埋葬し、供養のために御堂を建てました。それが現在の「回向院」(東京都墨田区両国)のもとになっています。

明暦の大火の影響①本格的な「定火消」の設置

明暦の大火の結果、江戸幕府は消防体制の見直しをはかり、「定火消(じょうびけし)」を設置します。定火消とは4家の旗本からなる火消専門役で、火消用の屋敷が与えられていました。屋敷内には火の見やぐらが建てられ、同心2名が常に周辺を監視していました。火事の際は100名を超える担当者が火消しに出動しています。また、治安維持も担っており、鉄砲の所持が許されていました。

4家から始まった定火消はその後増え続け、最盛期の元禄8年(1695年)には15組に増設。その後10組に縮小し、徐々に形骸化しつつも幕末まで活動を続けていくことになります。

定火消に代わって存在感を増していったのが、享保3年(1718年)に南町奉行の大岡忠相が設置した町人の消防組織「町火消」です。時代劇でおなじみの「いろは48組」に加え、本所・深川16組があり、合計64組が江戸の市中を火事から守っていました。

町火消の中心人物は高所で建設作業に携わっていた「鳶(とび)」と呼ばれる職人たち。纏(まとい)持ちが火事場近くの屋根に上って纏を振り回し、消火活動の目印になるとともに仲間を鼓舞する姿は江戸っ子の憧れでした。

明暦の大火の影響②消えた天守閣

江戸幕府は江戸の復興に向けてさまざまな取り組みをおこないました。まずは江戸の現状を知るため、オランダの測量技術を活用しながら実地測量に基づく絵図「新版江戸大絵図」を作成しました。

さらに火事の被害を受けた江戸城の再建を開始。石垣の修理や本丸御殿の再建などの工事は万治2年(1659年)に終了し、城は無事に往時の姿をとり戻…しませんでした。天守が再建されなかったのです。

天守は当初再建される予定でしたが、ここでストップをかけたのが保科正之。江戸城に天守が建てられた慶長12年(1607年)から50年がたち、幕府の政権運営も安定し天下泰平の世が訪れました。そんななかで軍事拠点であり、権力の象徴的な存在である「天守」は不要という考えからでした。江戸市中の復興が必須ななか、象徴的な建物に資金と資材を費やす暇などない、というわけです。

なお、江戸城は被災によりほんの少しその姿を変えました。それが表と大奥をつなぐ「御鈴廊下」が2本に増えたこと。大奥の女中たちが逃げやすいようにとの配慮でした。

明暦の大火の影響③防火対策で江戸の町を整備・拡大

明暦の大火を機に、江戸幕府は江戸の防火対策を強化しました。まずは武家屋敷や寺社を江戸城から遠いところに移転させました。例えば江戸城内にあった尾張徳川家と紀伊徳川家は麹町に、水戸徳川家は小石川にそれぞれ移転しています。

加えて江戸城周辺の武家屋敷や火を使う機会が多い寺社、町人地などを移転させており、そのために湿地だった本所・深川の開拓や築地の埋め立てなどの開発を実施しました。なお、建物については幕府は後に茅葺きや藁葺きなど燃えやすい屋根を禁じ、板葺きにするようにとの触をだしています。

さらに建物の延焼を防ぐために江戸市中に空き地や土手を設ける、いわゆる「火除地」を設置します。火除地は風向きを考え、江戸城北部から西北部にかけて東西に設けられました。また、下谷広小路(東京都台東区上野・上野広小路付近)のように、道幅の広い「広小路」も設けています。

明暦の大火は今まで千住大橋以外の橋を持たなかった隅田川にも変化をもたらしました。江戸城の防衛上の理由などから渡し舟がメインだった隅田川ですが、万治2年(1659年)に「両国橋」がかけられ、その後も「新大橋」「永代橋」「吾妻橋」と増えています。これは明暦の大火の際、向島に逃げようとした人々が川が渡れず逃げられなかったことを踏まえてのものでした。

明暦の大火前から江戸の町並みの整備は続いていましたが、火事によりさらに加速化し、火災に強い町づくりが進むとともに、「江戸」が拡大していくことになったのです。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。