参勤交代(2/2)大名行列と財政難

参勤交代

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事件簿
事件名
参勤交代(1635年〜1867年)
場所
東京都
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江戸城

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参勤交代で1日に歩いた距離は、藩により異なりますが約30km~約40km。強行軍のスケジュールのため、体の弱い大名や持病持ち、高齢の大名にとっては命がけの参勤交代でした。途中に命を落とした大名もいたほどでした。

なお、行列が各藩を通過するときは、各藩は道の清掃や人馬の提供などの「おもてなし」をおこない、大名行列が謝礼を返す、という通過儀礼もありました。

こうして行列は江戸に到着。到着後は将軍に拝謁し、土産を献上してから老中などにあいさつ回りをして終了です。献上品は馬や銀、反物などの地元の名産品等が定番。さらに御台所や世継ぎ、将軍のそば仕えなどにも金品を送らなければなりませんでした。

参勤交代が藩の財政を圧迫

参勤交代はさまざまな苦しみを大名たちに与えました。まずは莫大なコスト問題。移動にかかわる旅費・人件費・道中通過した藩への謝礼・献上品や付け届けは、藩の財政を圧迫しました。道中の出費だけで、大名家の歳出の5%~10%を占めたとも言われています。

例えば加賀藩前田家は文化5年(1808年)の参勤交代で、宿泊代と予約・解約の際の補償金・川越賃・幕府要人へ土産品代で銀332貫466匁、つまり約5万5410両(約5億円相当)を使いました。とはいえ100万石超えの前田家ならではの金額で、大半の大名は1万両を超えることはなかったようです。

例えば岡山藩(岡山県)池田家は、寛政10年(1798年)から約30年間は平均3000両を使用。文化9年(1812年)の鳥取藩(鳥取県)池田家の場合は1957両余りでした。その内訳は約4割が人件費で、馬の駄賃や川越えの費用などの運賃が約3割、宿場町などでの物品購入費が約2割。意外なのは宿泊費で全体の約5%程度でした。とはいえ、川の増水などの自然災害で足止めされると宿泊費はどんどん増えるので油断はできません。経費節減のために宿泊施設を値切ることもありました。

財政難の藩によっては路銀がなく、見切り発車で江戸を出立したものの途中で立ち往生したり、途中で借金取りに囲まれて動けなくなったりするケースもありました。大名行列は商人たちにとって取り立ての一大チャンス。特に江戸の商人にとっては国元に逃げられてはたまったものではありません。

例えば佐賀藩第10代藩主・鍋島直正は天保元年(1830年)、17歳の時の参勤交代で借金の取り立て騒ぎにあい、一時品川宿から出られなくなっています。その屈辱をばねに直正は大規模な藩政改革を断行して財政再建に取り組み、佐賀藩、つまり肥前藩を「薩長土肥」の一角まで成長させ、佐賀の名君として今に名を残しています。

参勤交代はさぼると罰則があった!

いろいろと面倒でお金がかかる参勤交代。病気を理由にさぼろうと思えばさぼれるのでは?と思われがちですが、しっかり罰則が発せします。

例えば、制度化前の話ではありますが、元和9年(1623年)の越前福井藩(福井県)・2代目藩主の松平忠直の例。大坂の陣の際の恩賞に不満を持ち、仮病を使って参勤交代をさぼり続けた結果、隠居の上豊後(大分県)に配流となっています。忠直は当時の将軍・徳川秀忠の甥であり娘婿。そんな徳川一門ですら罰則を受けたわけですから、他の大名たちにもかなりインパクトを与えたことでしょう。

遅刻した場合も罰則があり、寛永13年(1636年)には盛岡藩(岩手県、青森・秋田県の一部)2代目藩主の南部重直が到着予定を無断で10日遅刻したことで、約2年江戸で蟄居(謹慎)となっています。なお、自然災害などで遅刻する、経路を変更せざるを得なくなったため間に合わない、といったやむを得ない場合は多々発生しており、その場合は幕府に届け出を出せば問題ありませんでした。

幕府の終わりが参勤交代の終わり

問題だらけの参勤交代でしたが、嘉永6年(1853年)のペリー来航をきっかけに終焉に向かいます。幕府は開国を迫られる中、国防のために参勤交代の出費を抑えて各藩に軍事強化に取り組んでもらおうと考えたのです。その先鋒が越前福井藩16代藩主の松平春嶽(慶永)でした。本来福井藩は親藩大名なので政治に参加できませんが、幕末の混乱期に幕政に参加することに成功。この春嶽が参勤交代の緩和を発案します。

紆余曲折あったものの、文久2年(1862年)閏8月22日に改革令が発布され、参勤交代は3年に1度、江戸在住期間は100日に短縮、江戸の妻子は国元に帰国させてもよい、となりました。参勤交代の際の献上物等についても廃止されており、大名の負担は大きく軽減されたのです。

その後、尊王攘夷運動が盛んになり幕府の権威が失墜する中、元治元年(1864年)、第14代将軍の徳川家茂は毎年の参勤交代と妻子の江戸居住を復活するよう命じますが、当然多くの藩は従いませんでした。むしろ京都の天皇のもとに参勤する動きが生まれており、幕府はもはや風前の灯火でした。

そして慶応3年(1867年)10月の大政奉還、12月の王政復古の大号令により江戸幕府は終焉を迎え、参勤交代も終了したのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03