参勤交代大名行列と財政難
参勤交代
大名行列が江戸と国元を行き来する参勤交代。各藩がプライドをかけて華麗な大名行列を実施してその権威を示し、街道や宿場町の発展につながる一方、各藩が莫大な出費により財政難に陥ったことでも知られています。江戸幕府はなぜ参勤交代をおこなったのか。そもそも参勤交代とはどんなものだったのか。今回は参勤交代について、深掘りしつつ分かりやすく解説していきます。
参勤交代とはどんな制度?
江戸時代の制度として知られる「参勤交代」。その大元は鎌倉時代にあった大番役(おおばんやく)です。大番役というのは内裏や院の御所、京都市中の警固役のことで、御家人たちが交代で鎌倉や京都にて大番役を務めていました。
その発展形が室町時代に守護大名たちが京都に住み、将軍に仕えたこと。主従関係の強化と謀反防止のための策でしたが、戦国時代でも大名が家臣を近くに住まわせるなど、参勤交代と似たようなシステムが存在していました。豊臣秀吉も大坂や伏見に部下やその妻子を住まわせています。
徳川家光が参勤交代を制度化
徳川家康が江戸幕府を開くと、大名たちは忠誠を誓うために自ら人質として妻子を住まわせるとともに、東国の大名を中心に毎年江戸城に参勤するようになります。戦国時代の参勤交代のような制度が開府後も続いたのです。
大名たちは大坂に豊臣家が残っていた時代は大阪にも参勤していましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ後は積極的に江戸に参勤するようになります。2代将軍・徳川秀忠のもとでは、大名は妻子を江戸に置き、隔年で参勤するようになりました。
参勤交代制が制度化したのは3代目の徳川家光の時代でした。家光は寛永12年(1635年)に武家諸法度を改定(寛永令)。その際参勤交代を明文化しています。内容としては、外様大名を対象に、毎年4月に参勤交代を行うようにというもの。外様大名の代表としては加賀藩(現石川県・富山県など)前田家、薩摩藩(鹿児島県・宮崎県南西部)島津家、仙台藩(宮城県、岩手県、福島県など)伊達家などがあげられます。寛永19年(1642年)には親藩大名や譜代大名に対象が拡大しています(※譜代大名の時期は毎年6月または8月)。
参勤交代の目的は?
参勤交代の主な目的は、大名と将軍との主従関係の強化・明確化でした。また、人質を取ることで反乱を防止するという意味もありました。「参勤交代で大名の経済力を削いで反乱させないようにするため」という説もありますが、徳川家光の「寛永令」の時点で、参勤交代の大名行列の人数が多すぎる点は問題視されており、幕府は出費が多すぎて領民への負担が大きいことから従者の数を減らすように務めることを求めています。
参勤交代の人数は各藩の規模によって決まっていました。享保6年(1721年)時点では1万石の大名の場合は最大54名まで、5万石は167名、10万石が最大240人まで、20万石以上は最大450人までとなっています。しかし、後述しますが大名行列は荷物の多さなどにより人足が多く必要で、実際のところ規定通りの行列というのは難しかったようです。
さらに、参勤交代の大名行列は大名の力を内外に誇示するための絶好の機会でしたから、大名は全力で見栄を張って華々しい行列を仕立てました。加賀百万石として知られる加賀藩前田家5代目藩主・前田綱紀のときはなんと4000人の行列になっています。とはいえ、後述しますが全行程大人数で移動したのではなく、国元と江戸の出発・到着時だけのことでしたが…。
このため参勤交代のために大名たちは借金地獄に陥り、財政難に悩むことになるのです。
参勤交代の「例外」となった大名たち
参勤交代により、大名は1年江戸に住み、その後1年国元で過ごすようになりました。ただし、参勤交代の対象外なった大名もかなりいました。老中、若年寄などの幕府の役職についたものは、国元に帰ってしまうと政務に支障をきたすため対象外。江戸に常駐している徳川御三家の水戸藩や徳川御三卿も対象外でした。さらに1万石などの小藩は参勤交代のための金銭的な負担が難しいことから江戸に常駐することが認められています。
また、藩主の病気や国元の大飢饉などの非常事態の際は参勤交代を免除されています。幼い藩主も対象外でした。
期間についても例外がありました。関東の譜代大名などは半年ごとだった一方、遠方の大名は松前藩(北海道)が3年に1度、対馬藩(長崎県)宗氏が5、6年に1度でした。これについては、松前藩は蝦夷地の警備、対馬藩は朝鮮との外交・通商業務を担っていたことも一因でした。
参勤交代の流れ①出発準備に持ち物チェック
それでは、実際の参勤交代の流れについて見ていきましょう。まず、大名は参勤交代の伺書を幕府に提出し、幕府から参勤の時期を指示する命令書を受け取ったのち、準備を進めますそしてルートを決めて幕府に届出します。
続いて参勤交代の参加メンバーを選定し、道中の宿泊施設を押さえ、持ち物を準備していきます。宿泊施設については宿場町にある大名用の「本陣」と、藩士たちが宿泊する「旅籠屋」を押さえます。大人数の場合は周辺の寺院や前後の宿場町も利用することも。時期が被るケースもあったので、多くの大名行列が通過する東海道の場合、半年前には予約していたようです。
持ち物は武器に加え、同行する料理番の料理道具や米、塩、醤油などの食材。漬物石ごと漬物も運んでいました。これは殿様の毒殺予防のため。とはいえ運ぶ人足はさぞかしつらかったことでしょう。
このほか携帯用の風呂やトイレ(しかも中身含む)囲碁や将棋などの娯楽道具、鷹匠と鷹などが行列には加わりました。紀州徳川家の参勤交代の際は、殿の寝床を守るための鉄板まで持ち運んだという記録も残っています。
出発準備が整うと、大名たちは寺社に参詣して道中の無事を願います。そしていよいよ出発です‼
参勤交代の流れ②先払いから出立
さて、いよいよ参勤交代のスタートです。ここでは国元から江戸に向かう例を見ていきましょう。行列の先頭には人足が「先払い」としており、人々に行列の通過を知らせます。先払いが「下にい、下にい」と叫ぶと領民が土下座する、というイメージがありますが、これは徳川御三家と御三卿限定のもの。通常は「下におれ」「片よれ」と叫び、人々は行列の邪魔にならないように沿道に寄りました。
なお「産婆と飛脚以外は大名行列を横切れない、横切ったら無礼討ち」と言われていますが、あまりに長い行列の場合は途中で横切るための空白を設けることもありました。また、無礼討ちで切り捨てられるケースはほとんどなく、子どもの場合はほとんどが厳重注意で済んでいたようです。
行列には弓や槍、時には鉄砲などを担いだ足軽や中間などが前衛部隊を作ります。続いて大名のいる籠を中心とした本陣には騎馬隊に警護役の武士たちや衣類や薬、雨具などを運ぶ人々などが続き、最後に荷物を運ぶ輜重隊が続きます。なお、大名は原則駕籠に乗りますが、歩いたり馬に乗ったりすることもあったようです。
行列の先頭にいる槍持ち奴が、長い槍を投げあったり回したりと、パフォーマンスを繰り広げる場合もあり、大名行列は華やかなものでした。大勢の人の目に触れる場合は、ですが…。
参勤交代の流れ③始めと終わりは豪華
そう、大名行列には裏があります。国元や江戸を出立・到着する際は大人数で藩のすごさをアピールしていますが、実は臨時雇いのエキストラを入れています。それ以外は幕府の決めたルート・参勤日時を守るため、移動特化で人数を減らしてひたすら進むのです。
参勤交代で1日に歩いた距離は、藩により異なりますが約30km~約40km。強行軍のスケジュールのため、体の弱い大名や持病持ち、高齢の大名にとっては命がけの参勤交代でした。途中に命を落とした大名もいたほどでした。
なお、行列が各藩を通過するときは、各藩は道の清掃や人馬の提供などの「おもてなし」をおこない、大名行列が謝礼を返す、という通過儀礼もありました。
こうして行列は江戸に到着。到着後は将軍に拝謁し、土産を献上してから老中などにあいさつ回りをして終了です。献上品は馬や銀、反物などの地元の名産品等が定番。さらに御台所や世継ぎ、将軍のそば仕えなどにも金品を送らなければなりませんでした。
参勤交代が藩の財政を圧迫
参勤交代はさまざまな苦しみを大名たちに与えました。まずは莫大なコスト問題。移動にかかわる旅費・人件費・道中通過した藩への謝礼・献上品や付け届けは、藩の財政を圧迫しました。道中の出費だけで、大名家の歳出の5%~10%を占めたとも言われています。
例えば加賀藩前田家は文化5年(1808年)の参勤交代で、宿泊代と予約・解約の際の補償金・川越賃・幕府要人へ土産品代で銀332貫466匁、つまり約5万5410両(約5億円相当)を使いました。とはいえ100万石超えの前田家ならではの金額で、大半の大名は1万両を超えることはなかったようです。
例えば岡山藩(岡山県)池田家は、寛政10年(1798年)から約30年間は平均3000両を使用。文化9年(1812年)の鳥取藩(鳥取県)池田家の場合は1957両余りでした。その内訳は約4割が人件費で、馬の駄賃や川越えの費用などの運賃が約3割、宿場町などでの物品購入費が約2割。意外なのは宿泊費で全体の約5%程度でした。とはいえ、川の増水などの自然災害で足止めされると宿泊費はどんどん増えるので油断はできません。経費節減のために宿泊施設を値切ることもありました。
財政難の藩によっては路銀がなく、見切り発車で江戸を出立したものの途中で立ち往生したり、途中で借金取りに囲まれて動けなくなったりするケースもありました。大名行列は商人たちにとって取り立ての一大チャンス。特に江戸の商人にとっては国元に逃げられてはたまったものではありません。
例えば佐賀藩第10代藩主・鍋島直正は天保元年(1830年)、17歳の時の参勤交代で借金の取り立て騒ぎにあい、一時品川宿から出られなくなっています。その屈辱をばねに直正は大規模な藩政改革を断行して財政再建に取り組み、佐賀藩、つまり肥前藩を「薩長土肥」の一角まで成長させ、佐賀の名君として今に名を残しています。
参勤交代はさぼると罰則があった!
いろいろと面倒でお金がかかる参勤交代。病気を理由にさぼろうと思えばさぼれるのでは?と思われがちですが、しっかり罰則が発せします。
例えば、制度化前の話ではありますが、元和9年(1623年)の越前福井藩(福井県)・2代目藩主の松平忠直の例。大坂の陣の際の恩賞に不満を持ち、仮病を使って参勤交代をさぼり続けた結果、隠居の上豊後(大分県)に配流となっています。忠直は当時の将軍・徳川秀忠の甥であり娘婿。そんな徳川一門ですら罰則を受けたわけですから、他の大名たちにもかなりインパクトを与えたことでしょう。
遅刻した場合も罰則があり、寛永13年(1636年)には盛岡藩(岩手県、青森・秋田県の一部)2代目藩主の南部重直が到着予定を無断で10日遅刻したことで、約2年江戸で蟄居(謹慎)となっています。なお、自然災害などで遅刻する、経路を変更せざるを得なくなったため間に合わない、といったやむを得ない場合は多々発生しており、その場合は幕府に届け出を出せば問題ありませんでした。
幕府の終わりが参勤交代の終わり
問題だらけの参勤交代でしたが、嘉永6年(1853年)のペリー来航をきっかけに終焉に向かいます。幕府は開国を迫られる中、国防のために参勤交代の出費を抑えて各藩に軍事強化に取り組んでもらおうと考えたのです。その先鋒が越前福井藩16代藩主の松平春嶽(慶永)でした。本来福井藩は親藩大名なので政治に参加できませんが、幕末の混乱期に幕政に参加することに成功。この春嶽が参勤交代の緩和を発案します。
紆余曲折あったものの、文久2年(1862年)閏8月22日に改革令が発布され、参勤交代は3年に1度、江戸在住期間は100日に短縮、江戸の妻子は国元に帰国させてもよい、となりました。参勤交代の際の献上物等についても廃止されており、大名の負担は大きく軽減されたのです。
その後、尊王攘夷運動が盛んになり幕府の権威が失墜する中、元治元年(1864年)、第14代将軍の徳川家茂は毎年の参勤交代と妻子の江戸居住を復活するよう命じますが、当然多くの藩は従いませんでした。むしろ京都の天皇のもとに参勤する動きが生まれており、幕府はもはや風前の灯火でした。
そして慶応3年(1867年)10月の大政奉還、12月の王政復古の大号令により江戸幕府は終焉を迎え、参勤交代も終了したのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。