柿見陽介さん(一般社団法人キタ・マネジメント) 大洲城

一般社団法人キタ・マネジメント柿見陽介さん

-大洲城について教えてください
大洲城は肱川を堀として利用した、小高い丘にある平山城です。天守は明治21年(1888年)に一度取り壊されましたが、明治期の古写真や「大洲城天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組模型などの史料をもとに、大洲市が市制50周年を迎える平成16年(2004年)に木造復元しました。木造復元の一番のネックは内部構造が分かる資料がないことですが、大洲城天守雛形は内部構造がよくわかる第一級の資料で、これがあったおかげで木造復元が叶いました。
使用している木材はすべて国産で、大洲市周辺の樹齢100年以上のヒノキから、長野県の樹齢350年ともいわれる木曾ヒノキまでさまざまです。伝統工法の貫工法で作られています。
このほか、大洲城には台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓の4棟の櫓が現存し、国の重要文化財に指定されています。三の丸南隅櫓は明和3年(1766年)に再建されたもので、大洲城に現存する最古の建物。櫓から大洲城を見ると石垣と城がとても美しく、写真映えするフォトスポットになっています。苧綿櫓は天保14年(1843年)に再建されました。
台所櫓と高欄櫓は安政4年(1857年)の地震で大破しましたが、台所櫓は安政6年(1859年)、高欄櫓は文久元年(1861年)にそれぞれ再建されました。昭和の時代には現存する4基の櫓いずれも解体修理をされています。台所櫓と高欄櫓は天守につながっていて、線路越しに望遠レンズで撮影すると3つの建物が綺麗に撮影できます。
大洲城は元弘元年(1331年)に宇都宮豊房が築いた地蔵ヶ嶽城がその前身で、近世城郭になってきたのは、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の家臣、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石で入ったころだと言われています。戸田勝隆は文禄・慶長の役の際に朝鮮で病死し、その後に藤堂高虎が入りました。
藤堂高虎の城づくりの特徴として、犬走りを用い、本丸を多門櫓で囲むことなどがあげられますが、大洲城も江戸時代に描かれた絵図などからその特徴がみられます。このため、大洲城の縄張りまでは高虎がしたのではと考えられています。それをもとに次に入った脇坂安治が天守を建てたのではというのが有力な説です。また、脇坂安治は前の居城だった洲本城の天守を、大洲城に持ってきたのでは、という説もあります。
吹き抜け 大洲城フォトスポット
-天守について教えてください
天守の内部はかなり変わった造りです。中央には「通し柱」がありますが、1階から2階までで1本、3階から4階までもう1本使われています。また、1、2階の通し柱の周囲は2階の天井まで吹き抜けになっています。吹き抜けがある天守は今のところ大洲城天守と織田信長が建てた安土城天守しか確認できていません。現在、吹き抜けがある天守を実物で見られるのは大洲城天守だけで、大きな特徴になっています。
1階、2階、4階は漆喰壁で、壁の中に竹を十字に巡らし、荒縄を巻いて荒土を打ち付け、最後に漆喰で仕上げをする伝統的な工法で作られています。3階は福島県の赤松を使った板壁仕上げです。柱の間隔を狭くしており、倉庫のようなスペースだったのではと考えられています。
天守4階の外には大きな唐破風が四面についており、その影響で窓が小さくなっています。4階の窓は復元の際、眺望の良さを生かすために大きくする案もありましたが、結局史料に忠実に復元しました。なお天守の建物の高さは19.15mで、戦後に木造で復元した天守としては日本一です。
お城の麓を流れる肱川は瀬戸内海につながっています。江戸時代には肱川を利用した水運が盛んで、大洲は交通の要衝でした。瀬戸内海を通じて大阪や京都へとつながっていたようです。瀬戸内海から大洲に入ると、ちょうど肱川のカーブを曲がったタイミングで天守が見えるのですが、それを踏まえてか天守は華美に作られています。破風の多さもそうですが、屋根の鯱を敢えて小さめに作ることで建物をより大きく見せる工夫をしています。今の鯱は江戸時代にデザインされたもので、目玉は加藤家の家紋である蛇の目紋。まん丸な目がかわいらしいですね。
天守のフォトスポットとしておすすめなのが、肱川を挟んだ河原からの撮影。堰の少し右手の河原からとると綺麗に撮影できます。
大洲入り体験 大洲入り体験2 臥龍山荘
-日本初の城泊「大洲城キャッスルステイ」について教えてください
大洲城という文化財を活用する一策であるキャッスルステイは、大洲城の復元天守の一室に城主気分で宿泊してもらうというもの。木造復元天守は空調整備がないため、実施期間は春(3月~6月)と秋(9月~11月)に限っています。2020年から開始しており、年間で30組を受け入れています。料金は2人1組132万円からですが、ご家族での利用が多いですね。
もともと訪日外国人がターゲットでしたが、コロナの影響でまだ日本人の利用が多いのが現状です。当初は海外旅行を控える中、特別な体験を求めてこられたお客様が結構いらっしゃいました。昨年はアメリカやシンガポール、インドネシアからの訪日外国人もいらっしゃっています。
ちなみに大洲城としては2023年12月に約3200名が訪れており、このうち約570名が訪日外国人。松山空港にソウル線が就航していることもあり、約450名が韓国からのお客様でしたが、夏には欧米のお客様が増えます。このため英語・韓国語・中国繁体字・簡体字のパンフレットを用意しているほか、城内の案内看板は英語表記もしています。
-キャッスルステイではどんな体験ができるのですか
まずは藩主・加藤貞泰が大洲入りした様子を、記録をもとに再現してお客様に参加いただき、歴史を追体験していただきます。火縄銃で演武を行う大洲鉄砲隊も参加し、甲冑武者約20名がずらっと並んでお出迎えしますよ。
寝室は天守内の一室に畳を敷いて布団を用意。夕食は加藤貞泰公が食したであろう献立を現代風にアレンジした御膳料理を、重要文化財の高欄櫓で召し上がっていただきます。
お風呂は城山敷地内にナイトラウンジを兼ねた宿泊者専用の湯殿があり、夕食後に車で送迎して入浴していただきます。湯殿のお城側の壁は全部ガラス張りなので、夜にライトアップで浮かび上がった城を見ながらゆったりくつろげますよ。お手洗いは専用のトイレカーを用意しています。
翌朝の朝食は、肱川の臥龍淵にたたずむ重要文化財の「臥龍山荘」を貸切り、庭園を眺めながら召し上がっていただきます。明治時代に貿易商が建てた臥龍山荘のある場所は、実は加藤家ゆかりの地。臥龍淵の名は、3代藩主の加藤泰恒公が「龍の臥せる姿に似ている」ことからという言葉が由来で、そんな景色を見ながら朝食やお茶を楽しんでいただけます。
このほか有料オプションで花火や大洲の町歩き体験、肱川での川舟をつかった舟遊びなどもあります。花火は肱川を挟んだ対岸の河原からあげるもので、誕生日などのお祝いなどによく利用されます。
歓迎旗振り 大洲の街並み
-ほかに大洲城で楽しめる体験はありますか
大洲城では平成26年(2014年)に結成された「大洲藩鉄砲隊」による火縄銃の公開演武を見ることができます。毎月第3土曜日に本丸で開催されていますよ。また、火縄銃を模した輪ゴム銃を使って輪ゴムを撃つ遊びも体験できます。
毎週土日と祝日に運行している観光列車「伊予灘ものがたり」が肱川の鉄橋を通過する際、大洲城から列車に向かって加藤家の家紋をあしらったのぼり旗を振って歓迎する「歓迎旗振り」を行っています。お城に来たお客さまに多く参加していただいているイベントで、イベントをきっかけに伊予灘ものがたりに乗ったり、車窓から旗振りを見て大洲城に来ていただいたこともあります。
このほか、大洲城では土日祝日限定で甲冑のレプリカを着る武将なりきり体験もやっています。天気が良ければ天守を背景に写真撮影ができますよ。
-大洲の町のおすすめのスポットはありますか
臥龍山荘は欠かせませんね。また、大洲の街並みは江戸時代の町割りが色濃く残っており、特に城下町の地区は碁盤の目に整備されているので「伊予の小京都」とも呼ばれています。古民家を改装した「NIPPONIA HOTEL 大洲 城下町」をはじめ、雑貨店や土産物屋などさまざまなお店があるのでゆっくり見ていただければと思います。加えて、大洲は山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズ19作目の『寅次郎と殿様』の舞台になっています。
代表的な食事は里芋を使った郷土料理の芋煮「いもたき」。里芋を肱川の鮎からとった出汁で炊いたものでお店や各家庭で味付けの仕方が変わります。B級グルメとしては地元のソウルフードの「ちゃんぽん」があります。鉄板焼きで中華麺とご飯を炒めたそばめしスタイルのもので、どちらも飲食店で食べることができますよ。