武田信虎(2/2)甲斐の虎の父

武田信虎

武田信虎

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人物記
名前
武田信虎(1494年〜1574年)
出生地
山梨県
関連する城
躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館

甲府城

甲府城

天文12年(1543)に山城国南部から高野山、奈良を遊覧、各地の有力者と交流を交わしています。天文19年(1550)、今川義元の室で信虎の娘が亡くなりました。そして信虎自身も弘治3年(1558)には駿河国から京へ生活の拠点を移しています。

京へ生活を移した武田信虎は将軍足利義輝に近侍。「外様、大名」という高い席次を与えられ、足利義輝が幕府の役職的な身分、御相伴衆の数を拡充した事から信虎も御相伴衆に任じられました。
この時、御相伴衆に任じられた大名には九州の大友義鎮、中国地方の毛利元就、隆元、輝元、美濃国の斎藤義龍、駿河国の今川氏真といった錚々たる大名が連なっていました。
武田信虎が京で生活している間、今川家では桶狭間の戦いで今川義元が討死し氏真へ当主が交代しています。武田家では、第四次川中島の戦いが起こり北信地方を巡って越後国の上杉家と争っていました。

その後、永禄7年(1564年)から信虎は志摩国地頭の甲賀氏のもとに身を寄せています。この間、将軍足利義輝は三好家によって討たれる「永禄の変」が発生。永禄の変により将軍後継問題がおこり尾張国の織田信長が足利義昭を擁立し上洛を果たしました。
甲斐国を追放された武田信虎は駿河国や京などで生活していましたが、その周囲の武田家や今川家、将軍足利家などでは目まぐるしく状況が変わっていきました。

その終わり

織田信長に擁立された足利義昭は将軍に就きましたが、その後は織田信長と足利義昭との仲が悪化します。足利義昭は武田信玄に上洛し信長を討つように要請。
武田信玄はこの要請を受け西上します。ところが元亀4年(1573)、三河国へ来たところで病死しました。

武田信虎は翌年、甲斐国へ戻ります。天正2年(1574)三男の武田信廉の居城である高遠城に移り、孫でもある武田勝頼とも対面しました。そしてその年、娘婿である根津政直の庇護を受け、信濃国高遠において亡くなりました。享年81。
そしてその8年後、天正10年(1582)に甲斐国の守護大名武田家も滅ぶことになります。

武田信虎ゆかりの地

積翠寺と要害城跡
甲府駅北口からバスで15分程いった所に積翠寺はあります。元々は、境内の巨石から水が湧き出ていたことから石水寺と呼ばれていましたが、後に積翠寺と改められました。
武田信虎の夫人、大井の方が戦果を逃れこの寺まで来た時に武田信玄を産んだと言われ、現在も産湯を汲んだ井戸や産湯天神が残っています。
その積翠寺の裏手の山にあったのが、要害城跡です。武田信虎が躑躅ヶ崎館を築城した際、館の詰城として砦や狼煙台が築かれたといいます。現在は国の史跡として、遺構のほか石垣もほぼ完全に遺存しており城跡を見る事ができます。
武田信虎の肖像画
武田信虎が亡くなった天正2年(1574)。
信虎の5男、武田信廉(逍遥軒)によって信虎の肖像画が作成されています。信虎の孫、勝頼により作成が依頼されたとされるこの肖像画は目の大きい僧として絹本著色(布の上に描かれ着色された日本画)で描かれ、精力的な人生を表現しています。甲府の長禅寺住職春国の賛を得て、5月5日武田家の菩提所大泉寺に奉納されました。現在も山梨県甲府市の大山寺において保管されています。
武田信虎の銅像
山梨県甲府市は永正16年(1519)、武田信虎が躑躅ケ崎に館を構え、甲斐国の中心地としてから2019年で500年が経ちました。
この甲府開府500年を記念して、甲府商工会議所が甲府駅北口よっちゃばれ広場に武田信虎の銅像を建てました。
甲府の町を最初に造った信虎の像は軍配を手に持ち武田氏の本拠地である躑躅ケ崎館(現在の武田神社)を背に凛々しく立っています。この像は大泉寺の武田信虎の肖像画をモデルとしているそうです。
それまであった甲府駅南口の武田信玄像に続き、新たなスポットとして富士山を見据える武田信虎が立っています。

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

武田信虎が築城した躑躅ヶ崎館。
躑躅ヶ崎館は永正16年(1519)、甲斐国山梨郡(現在の山梨県甲府市)に建てられました。それまで甲斐国の政治、経済の中心地であった石和館一帯が度々水害に見舞われていたことから盆地中央の相川扇状地に移ることになりました。
城の形状は京の将軍館、花の御所(室町第)を模して方形居館、更に背後の積翠寺丸山などに要害を築いて甲斐国の政治、経済、防衛の中心地となります。躑躅ヶ崎館は、信虎、信玄、勝頼の三代にわたり居城として使用されました。

ところが戦国時代に入ると織田信長が勃興し、武田家は滅亡しました。甲斐国も織田家が統治するようになります。そこで代官として派遣されてきたのが川尻秀隆でした。秀隆は躑躅ヶ崎館を中心に甲斐国を治めようとしましたが、直後に起こった本能寺の変で秀隆も落命し織田家の統治も終わります。
秀隆が討たれた後に甲斐に入ったのは徳川家でした。徳川家は甲斐の統治に躑躅ヶ崎館を主城とし、それに見合うように城も近世城郭に近い整備をされました。しかし天正18年(1590)、徳川家の平岩親吉によって甲府城が築城され、中心地は躑躅ヶ崎館から移ります。そこから甲斐国の政治経済の中心地として発展しました。
現在、躑躅ヶ崎館の跡地には大正8年(1919)に創建された武田神社があります。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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