真田幸村(2/2)日本一の兵(ひのもといちのつわもの)

真田幸村

真田幸村

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人物記
名前
真田幸村(1567年〜1615年)
出生地
長野県
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関係する事件

慶長20年(1615年)、豊臣家と徳川家との講和は破られます。再び大阪城での戦さが起こることになりました、大坂夏の陣です。
大坂城の堀が徳川家により埋められたので、豊臣家は積極的に打って出る事になりました。
幸村は、河内国の道明寺の戦いに参加。伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させます。しかし、道明寺での戦いでは大坂方の諸将が討ち取られ、不利となっていきます。ここで幸村は殿軍(しんがり)を務め、迫って来た伊達家の軍を撃破しつつ、豊臣家の撤収を成功させました。
城に戻った幸村は、大坂方の諸将と共に最後の作戦を立案し軍を進めました。
しかし、作戦は失敗に終わり、大坂方の諸将は孤立していきます。
死を覚悟した幸村は、徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行。
この突撃は幸村の軍だけではなく、大坂方の諸将が参加し全線にわたって奮戦した為、徳川勢は押されて劣勢に立たされます。

幸村が指揮を執る真田隊は徳川方の軍を突破し、家康本陣の前に辿り着きます。更に家康の本陣に向かって突撃を敢行。徳川家康の周りを固める兵も蹂躙した為、真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったといわれます。
しかし、突撃の度に兵が討たれていき、ついに撤退を余儀なくされました。攻め続けていた大坂方も総崩れとなり大坂城への退却を開始し、大坂方の敗北が決定的となりました。

幸村は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家の侍に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られました。享年49。

大坂夏の陣において真田幸村が、徳川家康の本陣まで攻め込み、獅子奮迅の戦いを行った事から江戸幕府や諸大名家の各史料に記録されます。そして、そこから「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるようになりました。

真田幸村の由来

真田幸村は「幸村」の名で知られていますが、本当は「信繁」が正解です。直筆の書状や他の史料においても、「幸村」と使われているものはありません。
では、どうして「幸村」という名前が広まったのでしょうか。
「幸村」という名が使われ出したのは、大坂の役から60年ほど経ったころです。
お話として作られた話の中に初めて、真田昌幸の次男、「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」として名前が上がります。

なぜ「信繁」という名前が「幸村」となったか分かりませんが、一説には「幸」は真田家の当主が代々名前に付けていたためだと言われています。
「村」については、徳川家に縁起の悪い刀、村正から取られたから、という説や幸村の子孫が仕えた仙台藩主、伊達綱村の「村」から取られたという説があります。

ところが「幸村」と名は江戸時代半ば広く知られてしまい、徳川光圀の晩年の言語禄「桃源遺事」において編集者が「幸村」は誤りで、「信仍」が正しい(ただし「信仍」も誤りで「信繁」が正解)と書き記したほど、幸村の死後100年も経たずに流布します。
さらに時代が下がると「幸村」の名前が定着しすぎて、江戸時代の系図資料や松代藩真田家の公式資料にまで「幸村」の名前が使われるようになりました。

ただし、松代藩真田家では「幸村」の名前が誤りで「信繁」が正しい事は把握していたようで、江戸幕府から幸村の名前に関する照会が来た時、「信繁」だと回答。「幸村」は大坂の役に入ってから名乗った名前だ、と返答しています。
こうして真田昌幸の次男、真田信繁は江戸時代を通して庶民に親しまれるがあまり、名前が真田幸村となりました。

真田信之と所縁の地

紀州九度山の真田ミュージアム
九度山町(和歌山県伊都郡九度山町)は、関ヶ原の戦いのうち上田合戦に敗れた真田幸村が父真田昌幸とともに蟄居した村です。
村では、その真田幸村父子と幸村の息子、真田大助を語り継ぐ真田ミュージアムを作り、展示を行っています。ドラマで使われた衣装や小道具、またパネル展示やドラマ仕立てで真田家三代の生涯を紹介しています。
紀州九度山の真田庵(善名称院)
九度山町には、真田父子が住んでいた真田屋敷の跡に真田庵(善名称院)が建てられました。
六文銭が刻まれた門をくぐると、敷地内には、真田昌幸と言われる墓や、真田幸村が落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったという「雷封じの井」、真田家所縁の資料館などがあります。
紀州九度山の真田まつり
九度山町は真田父子が蟄居していた場所として所縁があり、親しまれています。その真田父子を讃える為に、5月の2日間、「紀州九度山真田まつり」を毎年行っています。メインは2日目の、道の駅から真田庵まで町中を練り歩く真田の武者行列です。
三光神社と真田の抜け穴と銅像
大坂冬の陣に置いて真田幸村が建てたのが真田丸です。真田丸があったのは現在の大阪市天王寺区のあった辺りですが、現在ではその有った場所に真田山があります。その真田山の近くにあるのが三光神社です。この三神社には、大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている「真田の抜け穴」や真田幸村を元にした像があります。
真田山三光神社と真田祭
三光神社では、毎年11月に真田幸村を偲んで真田祭を行っています。境内にある「真田の抜け穴」の公開や、子供たちへの甲冑体験、真田にちなんで忍者ショー、鉄砲撃ち体験などを行っています。

真田幸村と上田城

上田城(うえだじょう)は長野県上田市にある日本の城です。真田幸村の父、真田昌幸が天正11年(1583)築城した平城でした。
関ヶ原の戦いで、真田幸村は父の昌幸と共に不惜身命を意味する六文銭の旗を並べて上田城に籠り、徳川秀忠を足止めする戦いを行い勝ちます。その為、翌慶長6年(1601)関ヶ原の戦いに勝った徳川家により破却されました。

現在の上田城は、上田城跡を中核とした上田城跡公園となっており、樹齢100年といわれるケヤキ並木をはじめ、約千本の桜など市民の憩いの場所となっています。
本丸跡にある真田神社は、上田合戦で「落ちなかった」城であることにあやかり、受験生の必勝祈願のスポットとして賑わっています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03