三方ヶ原の戦い(2/2)家康がまさかの脱糞!?「三方ヶ原の戦い」~武田信玄VS徳川家康

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
三方ヶ原の戦い(1573年)
場所
静岡県
関連する城
浜松城

浜松城

関係する人物

ところが、この話はそもそもの出典が明らかになっていません。江戸時代に入ってから、17世紀中ごろに書かれたとされる作者不詳の「三河後風土記」に似たような話として、一言坂の戦いで脱糞し、それを発見した部下が家康を罵倒したというエピソードが書かれていますが、脱糞エピソードとしてはこれが初出のようです。

もともと三河後風土記は偽書説が出ている書物。後に江戸幕府第11代将軍の徳川家斉の命令で改訂された「改正三河後風土記」では、記述は誤りであるという理由から脱糞エピソードは削除されています。三方ヶ原の戦いで脱糞した、というエピソードは小説や大河ドラマなどでも取り上げられて有名になりましたが、信ぴょう性は著しく低いと言えるのではないでしょうか。

「しかみ像」は三方ヶ原の戦いと無関係?

同じように、大敗した三方ヶ原の戦いを忘れないため、自戒の意味を込めて家康自身が描かせたというエピソードで知られているのが「しかみ像」です。顔をしかめ、左足を右足の上に置いて椅子に腰かけた姿で描かれた絵で、現在は名古屋市の徳川美術館が所蔵しています。

ところが、近年、このエピソードを覆す説が徳川美術館の学芸員である原史彦氏から出されました。そもそもこの肖像画、研究によれば17世紀初頭に狩野探幽が書いたもので、尾張徳川家に嫁いだ紀伊徳川家の姫、従姫の嫁入り道具のなかに入っていたものでした。それがいつのまにか長篠の戦いの姿を描いたものとされるようになったとのこと。

そして昭和11年(1936年)、徳川美術館の開館の翌年に実施した展覧会でしかみ像が展示された時、美術館の創設者の徳川義親氏から「三方ヶ原の戦い後に描かれた」という話が出てきました。どうやら展覧会にあわせたアピール作戦の一環だったようで、そこから尾ひれがつき、戦後すぐに家康が書かせた、という話へと「進化」したようです。

そもそも肖像画の服装は烏帽子と直垂という古典的な服装であること、恰好が仏像の半跏思惟像のような姿であるため、家康を礼拝するための肖像画だったのでは、という説もあります。よく三方ヶ原の戦いと結びついて紹介されるしかみ像でしたが、実は無関係だったというのが正しいようです。

本当にあった?犀ヶ崖の戦い

三方ヶ原の戦いの当夜に起こったとされるのが「犀ヶ崖の戦い」です。戦当時のものではなく、江戸幕府が後にまとめた史料から出てくるもので真偽は定かではありません。しかし、とても興味深い話なので紹介しておきます。

三方ヶ原の戦いの後、武田軍は犀ヶ崖の付近で野営していました。徳川軍はこの断崖に白い布をかけて橋があるかのように見せかけた上で、武田軍に夜襲を仕掛けます。徳川軍は背後から鉄砲隊で一斉射撃を実施。慌てた武田軍は逃げようとして偽の橋に殺到し、次々と崖下に転落して死んでしまいました。当夜は雪が降っていたので見通しも悪かったようで、多くの兵が偽の橋に騙されてしまったのです。

犀ヶ崖の断崖は合戦当時長さ約2km、幅約50mあったようで、そんなところにいきなり布をかけて橋のようにできたのか、そもそもいくら雪が降っていたとはいえ見間違えるのか?といった疑問が残ります。あくまでも「物語」として楽しむのが正解かもしれません。

ちなみに、犀ヶ崖ではこの後、崖の下から人のうめき声や馬の鳴き声が聞こえるようになったのだとか。さらに付近ではイナゴの被害が発生するなどよくないことが起きたことから「武田軍の祟りではないか」という話が広がりました。これを聞いた徳川家康は高僧を招いて怨霊を鎮めさせます。その後、家康は領民にお盆の間には大念仏(音楽に合わせて念仏などを唱える)を演じて供養をするように命令。今でも浜松市を中心に「遠州大念仏踊り」として続いています。

三方ヶ原の戦い後

三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った後、武田信玄は東三河に侵攻して野田城を落とします。
しかし、信玄の病状が悪化したことで、武田軍は甲斐国への撤退を決意。元亀4年(天正元年、1573年)4月、信玄は帰国の途中で病死してしまいました。

その後、武田家は後継者争いで乱れ、後を継いだ武田勝頼は天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗退。天正10年(1582年)の甲州征伐で死亡し、武田家は滅亡することになります。

一方の家康はしぶとく生き残り、織田信長の死後、豊臣秀吉の天下を経て、天下を掌握して江戸幕府を開きます。もし三方ヶ原の戦いで家康が死んでいたら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。家康の強みは、三方ヶ原の戦いのようなピンチをうまく切り抜ける力なのかもしれませんね。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03